錦橋 丹波市
皆さんの・ふるさとを代表するものを 容(かたち)で表わせば何でしょうか!? 旅行者や故郷への帰郷者が 市や町へ入る表玄関となる「橋」にも 其の「歓迎の意味や思い入れ」のこころが表現されているものがありますね【錦橋 ふるさとの顔】 画像は御所人形が原型と思える図柄で「鯛持ち小僧」 相対する北側には熊金(熊を投げる金太郎が描かれています。遠望する白山山頂と途中の尾根上、及び麓には居館・・赤井氏発祥の地:後谷城がありました。
「魚と金太郎」では鯉に跨った金太郎図柄の東条(現:加東市)の「播州鯉のぼり」を思い起こします。釣り針と共に此の地方の特産民芸品ですね。隣の吉川町だったか?や、次に紹介の旧多可郡中町間子でも、同じ様な理由の古事により”幟を立てない”風習の処もあるんですが…!多可郡(現:多可町中区)間子の加都良大橋は「すずめ橋」と呼ばれ、間子の七不思議の一つ歩く雀が欄干の親柱を飾っています。八上城を正面に望み光秀軍の向城が並んでいた篠山川の弁天橋は城下を思わせる瓦屋根で飾られています。先日・柏原町内で見かけた稲畑土人形は、其の稲畑地区を流れる佐治川(加古川)の錦橋の親柱に土人形の人形絵が描かれています。 其の柏原町は柏原織田藩陣屋と長屋門が残ることで知られますが、田ステ女加賀の千代女と並び元禄四俳人で有名ですね。柏原駅の玄関で迎えられ、陣屋跡でも待っていて・くれてますが、丹波の森公苑入口から北へ、小南山麓の小南橋にも「田ステ女」の”雪の朝 二の字 二の字の 下駄のあと”イメージの図柄がある。丹波市山南町の井原橋は、播磨から丹波への玄関口ですが特徴が無いですね。「赤米の里」ですが いま騒然:話題の「丹波竜」をモチーフの橋になるかも知れませんね…(^_-)-☆
「魚と金太郎」では鯉に跨った金太郎図柄の東条(現:加東市)の「播州鯉のぼり」を思い起こします。釣り針と共に此の地方の特産民芸品ですね。隣の吉川町だったか?や、次に紹介の旧多可郡中町間子でも、同じ様な理由の古事により”幟を立てない”風習の処もあるんですが…!多可郡(現:多可町中区)間子の加都良大橋は「すずめ橋」と呼ばれ、間子の七不思議の一つ歩く雀が欄干の親柱を飾っています。八上城を正面に望み光秀軍の向城が並んでいた篠山川の弁天橋は城下を思わせる瓦屋根で飾られています。先日・柏原町内で見かけた稲畑土人形は、其の稲畑地区を流れる佐治川(加古川)の錦橋の親柱に土人形の人形絵が描かれています。 其の柏原町は柏原織田藩陣屋と長屋門が残ることで知られますが、田ステ女加賀の千代女と並び元禄四俳人で有名ですね。柏原駅の玄関で迎えられ、陣屋跡でも待っていて・くれてますが、丹波の森公苑入口から北へ、小南山麓の小南橋にも「田ステ女」の”雪の朝 二の字 二の字の 下駄のあと”イメージの図柄がある。丹波市山南町の井原橋は、播磨から丹波への玄関口ですが特徴が無いですね。「赤米の里」ですが いま騒然:話題の「丹波竜」をモチーフの橋になるかも知れませんね…(^_-)-☆
この記事へのコメント
そう言えば篠山には、欄干にイノシシが乗っかっている橋がありましたね(笑)
それと、デカンショ踊りのもね(^。^)
先日の念仏城の件、もし何か見つければお知らせしますね。
手元にある「播磨古城址」には・・・
念仏村砦
加東郡東条郷念仏村
田尻甲斐守
別所の幕下といふ(「播城志)」
としか出ていませんでした(^^ゞ
別所方の資料等?には、田尻甲斐守は三木籠城で討死した家臣?の中にあり、其の戒名もあるというのですが、別所一族でもなく、「由緒正しい田尻家」が別所方について籠城したことも、念仏城が其の近在で別所方として戦い討死したか敗走したかは、田尻惣領家xx氏からのコメントが無く判りませんが、現地に田尻姓は多いようですので、秀吉方に下りて許され?帰農したと思えます。それ以上にxxx源氏の固執されているので播磨赤松家との繋がりや、此処を所領した経緯が不明のままで、念仏城の再訪は難しいですね。いっそ何も知らない方が良かった・・(^^ゞ
「城めぐ」さんも流石?に未だ行ってないようですね・・・!!
毛利元就の稲畑人形があることがWebで判りました・・・・(*^_^*)
「猪欄干」を見るたび 其処から見える篠山城の候補地ともなった「飛ノ山城」に明確な遺構が残っていればと、溜め息交じりに眺めています・・・(^^ゞ
歴史や文化を感じる
そんな橋が増えると
いいですね~
例の清水山ですが、
先日、丹波県民局の治山課で
治山ダムの計画の中に
古墳らしきものがある
というお話を聞きました
清水山には古墳が多いようですね
清水山裾の柏原側には柏原高校の東に東奥古墳群、北に藤の目古墳群、柏原中学校庭内に昭和池古墳8号墳、以前登られた大歳神社に南多田古墳群等確認されているだけでも30数基はあるかと・・!?
さらに氷上町側に北野群集墳と坂群集墳だけでも同数程は在るようですね。
治水ダムの計画があるとすれば藤の目池をダムとして整備される事も考えられますね?
この谷なら古墳時代後期の未調査の中小規模古墳が、池の上方の谷に有っても合点はいくと?思います。専門家じゃないので詮索は無理ですが。
清水山に伝承があるとすれば山岳宗教絡みか、芦田氏の石生城の見張所があったとも考えてみたいですね・・(^^ゞ
石生城はhttp://www.ne.jp/asahi/tanba/kirinosato/TANBA-mukaiyama-docu.htm
古墳群はhttp://kirinosato.fc2web.com/tanba-kofun.htm