手向けの野花と乙女塚 篠山市

以前に女畷・乙女塚を紹介していますが、半夏生(はげっしょう)のいま再度・八上城に向かい「女なわて」を歩いてみた。篠山城の南「野中・小枕口」から東方に向かい真直ぐ延びる道の左右に拡がる田園風景の先に八上城の山容が浮かぶ。
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天正7年落城目前の城を出て西へ逃れる老人・婦女子の一団が辿った畦道。振り返ると煙る八上の城中に残る肉親や恋人を想い・逃げるに偲びず自害した腰元・侍女達もいた。此の道を主君:波多野秀治の遺児波多野甚蔵を抱いた乳母達もいて乳母の里に隠れ住み、味間の文保寺に入門、
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やがて遷俗して篠山藩主:松平忠国の代官を勤めたとされます。明智光秀軍の追っ手とも戦い多くの死者も出た様ですが畷に沿った南側100m程には八上の向城となっていたのかも知れない四季山城西南の角「小枕口」には小丸山の砦?がある。
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非戦闘員として見過ごしてくれたのかも知れない? 四季山城さえ地元に城跡としての伝承もなく、まして小丸山砦は更に不明? 小さな山頂に稲荷神社の祠があるだけだが山容にも分かる急な小山に高い段差で広い曲輪もあった。まだまだ資料等は未調査ですが何かあるのでしょう?。
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