平家隠れ里・榎原の山城 福知山市

平家の隠れ里伝承地は山険しく・峪深い人里離れた僻地を想像します。府県境尾根を越える穴裏峠もトンネルを抜ける・県道109号ではなく、先を歩く人の尻の穴が見えるほど!!急な山越えの道「府県境尾根を奥榎原・樽水…へ越える尾根筋北方の
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穴裏峠!」。県道109号は山峡を北山麓の榎原集落に降りてくる。榎原川が和久川に3km程で合流する地点に榎原城がある。和久川沿いには佐治街道(丹後道)が通じる要衝ですが、ポツンと取り残されたエポック!!此の地には長治元年(1104)平親盛が逃れ来て住み、城を築いた伝承が残ります。 
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城史については不詳だが尾根上の城域を二つの堀切が分け土塁・矢倉台・曲輪への虎口を残す中世城郭遺構はどの様な歴史を秘めているのでしょう?。黒井城:荻野直正が丹波三郡を領して・天田郡に勢力を持っていた頃・府県境南側には
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芦田氏の本拠城があり、烏帽子山城とともに黒井城への天田郡側からの侵攻に備えて機能した城だったのでしょう?しかし築城や居城主は遺構からしても、中世末の廃城まで京都丹波側の豪族:榎原氏等が拠った城址と思えます。

この記事へのコメント

べーさん
2016年05月04日 13:51
以前コメントさせて貰ったかもしれませんが。
榎原地区の件ですが、観瀧寺が中世まで存在した箇所の遺構を確認しましたので、何かの役に立つかと思い貴サイトに報告いたします。
レポは私のブログに書いておりますのでご興味がありましたら。http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/54643859.html
2016年05月05日 15:51
べーさん ご無沙汰しております。やっと気掛かりだった寺院跡探索されましね。予想以上の苦難も空海の真言密教の世界・悟りを求める強い心を持てば仏の加持力を受けることができる…との教えを遂行。悟りを求め多大な成果を得られたようですね 相当長く広範囲な山上部ですが、調査された尾根筋に奥の院や本堂の位置が不明のようで?、城郭として改修されていた可能性もありそうですね。光秀の丹波攻めに無難で天正13年になって兵火とは…何があったのか?
レポート案内ありがと云う御座います。Web参照していた福知山市遺跡情報が(電子国土Webの地図更新中止)見られなくなって久しいが、市遺跡地図が市内全戸に配布されるとの事で親戚(正明寺)の頼み・期待しています。遺構調査は姫髪山城(丹波大文字)を例にすれば、「堀がなければ城ではない」…との考え方が市教委の方にあったようで2010-11年城郭研究T氏を案内しての縄張り実測で、中腹までの尾根筋から長安寺付近にかけて切岸明確な無数の曲輪群を発見。報告を受けて市も城として意識されたとか?。今回の遺跡地図には記載されているかも
http://kirinosato.fc2web.com/KYOTOebara-siro.htm#himekami 
丹波市も市制記念に発刊された丹波市誌に寺社・城郭・観光文化遺跡に熱心なら、此等情報の無い市誌発刊は考えられない?。追加・別版の発行を期待しているところです。
八幡山段城・西倉城・円通寺城と井中城・鴨内城…等遺跡地図に記載ない城郭20近くも、別ルートで発表。注目されてくれば市でも採り上げるのかも?。
べーさん
2016年05月06日 05:47
お返事ありがとうございます。
今回は時間的なことと天候の悪化によりしっかり踏査できなかったのが悔やまれます。
奥榎原の古老が記した記載にはさらに他の尾根にも僧坊が広がっていたという言い伝えがあり、それが本当であれば相当な規模があることになります。
本堂等の具体的な堂宇の跡に関してはさすがに分かりませんね。もはや「ここに寺があった」という言い伝えだけですので。ただ、重要な堂宇があったのかなという感じの周りより高い箇所とかもありました。管理人様のご指摘通り城の可能性も考えましたが、土塁の位置が城とは異なる感じだったり、堀切や竪堀などの防御施設は見当たらないのに石垣はあるなどやはり城とは異なる雰囲気でした。
福知山市の遺跡地図は見れなくなってますが、代わりに京都府・市町村共同の遺跡地図が公開されています。http://g-kyoto.gis.pref.kyoto.lg.jp/g-kyoto/top/select.asp?dtp=671 姫髪山に関しては現在の長安寺も古代から中世にかけて山に僧坊が建ち並んでいたとの言い伝えがあり、その可能性も一つあるかもしれません。
今回の中世観瀧寺跡はまたいずれ踏査を試みます。ご案内できる機会があればいいのですが(笑)
2016年05月06日 12:10
京都府遺跡地図は http://g-kyoto…694 からVer-upしているようですね
寺院跡の西先端土塁幅は3m程あれば、榎原城とは谷を挟んで呼応する位置に在り、天正13年兵火を考えるとき「小牧・長久手の戦い」に徳川方に呼応した丹波の一揆勢力が籠り、翌年秀吉方の報復で兵火にかかったとも?、先端土塁は櫓台ではとも推察してみました。余田西城(http://tanbakiri.web.fc2.com/TANBA-godaisan2-docu.htm#araki)参照… また東北の室・正明寺へ延びる尾根も枠側沿いの丹波・丹後街道監視の好位置にあり?… 牧の堂屋敷城の南尾根三城の新発見遺構に城名が付いていることを知り、HP修正をしたいと思います。http://kirinosato.fc2web.com/KYOTOmaki-siro.htm
その他 未訪の城探索もしなくては


天正13年になって兵火とは
べーさん
2016年05月21日 20:05
お世話になってます。
本日、中世観瀧寺跡の再踏査をしてまいりました。
前回未踏査だった西側に大規模な曲輪があり、本堂があったと思われる段に石段跡や礎石らしき石の列も確認。城としての機能もあったのか堀切も2条確認しました。とりあえず地形図に乗せた縄張図を作成しましたので取り急ぎ報告します。
http://p.twipple.jp/FbfXF これより写真を整理して報告レポ日記を書きますので、完成したらまたご案内させていただきます。
べーさん
2016年05月22日 09:43
お世話になります。再踏査した中世観瀧寺跡のレポートを作成しましたのでご興味があればご覧ください。http://blog.livedoor.jp/besan2005/archives/54648214.html 今回、本堂跡とも推定される大規模な平坦地や石段、城としての性格も匂わせる堀切や段状の曲輪群も確認できたのが大きな成果となりました。あと、室町期の珠洲焼や備前焼の壺や甕も発見でき、寺院跡の時代の裏付けもすることが出来ました。
2016年05月24日 21:48
べーさん からの観瀧寺廃寺跡は当初:親不知605m北尾根の580m付近東西に延びる緩やかな尾根と思っていたのですが、レポートで奥榎原地区に末端を落とす尾根290m付近とわかりました。
詳細な縄張り図と写真からは二重空堀(一つは帯曲輪上で切れる箱堀か?!!)を境に二郭で構成されているようです。東郭は山岳寺院の様相そのままですが、西郭は石積み上の主郭を取巻き守護する城郭として改変を推察しています?。東西に突き出すような幅広土塁は左右の曲輪間を通らずに連絡する土塁道・西末端は櫓台か、一段下の曲輪は狼煙用焚き木(煙の色等特性で区別する種々用材)の保管場所ともなり?狼煙台だとすれば…?。べーさんの発見による興奮が伝わってきます。兵庫丹波・京都丹波を結ぶ当時の街道筋は足立氏領内の榎峠越え(429号)ですが、現状ではトンネル開通による芦田氏領の穴裏峠越えが主。此の穴裏峠を間近に望む395m嶺から瑞雲寺背後の丘陵上に何箇所か城砦群を発見しています。芦田氏本拠は小室城ですが、瑞雲寺(芦田氏菩提寺)背後の城遺構群は空白地帯。8年前の発見で他の10数件も含め市教委(組織が変わったか?現:文化財課!!)へ正式ではないが略図や位置等は報告してきたが…どのように処理されたかは知らない?。穴裏峠城(仮称)の時代背景推定は難しいが、相当急いで築城した様子。穴裏峠城<仮称>から一番近い城が榎原城と寺院の城郭化したものか?此処。京都丹波川へ穴裏峠を下った奥榎原地区に足立姓・芦田姓を見掛けて関連があるのかも…と。 ただ主曲輪と思えるところは切岸も内円状・陣城風情でしたが…!!。梅雨までに(近々)訪ねてみますネ
瑞雲寺城・穴裏峠城等→ http://tanbakiri.web.fc2.com/TANBAikaiyama-godaisan-docu.htm#zui

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