丹波の赤鬼の城[朝日城] 春日町

黒井城主荻野直正は赤井氏の本拠後屋城主赤井時家の次男(幼名:才丸)。同族の荻野氏本拠の朝日城に天文年間(1532~55)荻野18人衆と呼ばれた地侍の盟主に乞われ養子に入った。朝日城主:荻野(赤井)才丸が黒井城の荻野秋清を殺して
画像
黒井城主となり荻野悪右衛門を名乗り、やがて奥丹波の氷上郡・京都丹波の天田郡・何鹿郡をも領有地として勢力をもち天正3年には丹波に侵攻してきた山名氏を但馬に逆襲して竹田城をも占拠。山名氏からの救援を足掛かり織田信長が
画像
丹波攻略を急ぎます。天正3~7年のかけて織田信長の「丹波攻め」では部将:明智光秀軍を相手として多紀郡(篠山市)八上城主波多野秀治との共同戦線「赤井の呼び込み戦法」により一度は明智軍を敗走させ、一躍全国に其の勇猛を轟かせた
画像
「丹波の赤鬼」荻野悪右衛門直正と「丹波鬼」の丹波武士の城として黒井城は国史跡として知られる。荻野氏本拠の朝日城へ最初に直正を盟主(城主)として迎えたが、現状:朝日城遺構も城域の半分の山の斜面は土取りで削り取られて消滅茶臼山城とともに明智軍の黒井城攻めの陣城ともなった織豊系縄張り核心先端部の曲輪や斜面に残っていた竪堀群も宅地造成により消滅…
画像
郷土に荻野氏・赤井氏の歴史遺産の貴重な灯が、また一つ消えたような気がします。城下の朝日集落内に居館跡も残るという。土塁の方形曲輪?とおもえるものはあるが、堀を伴う居館跡と思われるものは見つけ出せなかった。僅かの期間に周辺の状況が変わったものか?遺跡分布図でもあれば再度訪問してみたい。


この記事へのコメント

この記事へのトラックバック