比丘尼城の歌比丘尼 養父市

養父市八鹿町の朝倉地区集落の南方奥の丘陵に城山がある。最高所にある主郭本ノ丸中央に位置して壇状に造築された櫓台が集落からも望まれる。小さな山城こそ(実際は南に延びる尾根上に梯郭式に曲輪を並べ土塁・二重堀切で防備する一城別郭の城…!!?)、越前一城谷を本拠地とした守護大名:朝倉氏の本貫地とされる。
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朝倉城と谷を挟んで東の山稜から延びだした枝尾根の先端:小さな丘陵部に比丘尼城がある。比丘尼と名のある城が多いので、その由緒を調べてみるのも面白そうです。人魚を食べて不老不死になった八百比丘尼の伝説から一族の繁栄や不落の城を祈念して名つけられたものでしょうか?
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此の城は朝倉城主の奥方や姫の居館だったとされるようですが、比丘尼は女性出家者の事?。「比丘尼」を調べていて、熊野信仰を広める為に全国を巡り歩く尼僧形の女性「熊野比丘尼」に行き当たった。紀伊:熊野三山(本宮・新宮・那智)によって組織され、熊野那智参詣曼荼羅の絵解きを行って熊野詣を勧め、熊野牛王の護符を売り、勧進【社殿堂塔の造営・修復の寄付金を集めること】を本務として勧進比丘尼とも呼ばれます。
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熊野詣PRのコンパニオン:彼女達は歌念仏を唱え「歌比丘尼」とも呼ばれたが江戸時代中期以降は熊野信仰も衰退し・男らに春を鬻ぐ(売る)ものも出て尼僧姿をした私娼の代名詞ともなったという。比丘尼城の西斜面には曲輪の土留めに築かれた長い石積みが残るが・一帯は「アセビの森」弱々しい風にも小刻みに身体を震わせて俯き加減に”小さな口を開けて謳いだす・歌比丘尼の哀歌と哀愁に満ちた”城(居館)。戦いの記録はなく・他所で討死した城主らの菩提を弔う為出家した奥方もいなかった?様。まして比丘尼として居館に籠もったとも思えない。畑ではなかったか?とさえ考えられていた城(居館)だけに、比丘尼の名の由緒には興味がある。   
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この記事へのコメント

山城甚伍
2008年05月07日 19:11
天々さん、こんにちは。
八鹿町の山城は、八木城に行った折りに、朝倉城に寄ったことがあります。下草ばかりで遺構も良く分からなかったのですが、最近、整備されているようなので、八木城ともども再訪したいなと考えています。
 作日、園部町の宍人城、宍人館、小出氏館を見てきました。宍人城は山頂東西に渡り曲輪段が構築されていて、西端と東端には土塁曲輪がありました。石の多い山で、数掛山城のようでしたが、人工的な石積みは殆ど見受けられませんでした。城跡から眺める胎金寺山の山容が素敵でした。
 宍人館には驚きました。素晴らしい!。広すぎる城域は、丹波攻めの明智勢駐屯地(陣城)かなと感じました(堀を挟んだ主曲輪西方の曲輪)。
居館だけあって、湧き水が各所にありましたが、水脈があるのでしょうね。
 丹波史談会の「丹波」を読みたくて、図書館の蔵書検索をしたら、南丹市中央図書館と日吉図書室に分散蔵書されていました。これを読んで、訪城レポを仕上げたいと考えています。それにしても、5時閉館だし、日吉図書室は離れているので、山城巡りを終えてから、立ち寄るのは無理なようです。
2008年05月07日 21:08
山城甚伍さん GW締めくくりの城めぐ でしたか? 好天気なのに所用で遠出する事もままならず 家で燻ぶっていました・・
c⌒っ,,-_-)φ
但馬朝倉城と比丘尼城 たった今UPしました。古墳の葺き石状にべったり詰まれた土留め石の主郭部のほか 連郭の南郭部の土塁・二重堀切 比丘尼城にも石積が有りました。竪堀も有るらしいことは後で知ったが気が付かなかった?
胎金寺山へは登った当時 山城を知っていれば尾根伝いに宍人城を探したかも・? 現状の宍人館とのセットで詰め城とは考えられませんね・・ しかし見応え充分 宍人館は満足されたと思いますよ。丘城ともいえないほど比高の低さをカバーする土塁囲みと空掘・・・GOOD・・ですね
旧 丹波史談会の「丹波」
現 丹波史懇話会 「丹波史」
 各xx号 のxxx記事内容わかりましたら
此方でも調べ 写しをお送りできるかも・・・
 但馬の城めぐ 一連の最後 は豊岡市の福田城に取り掛かりますが。。此処も資料無く 難航しそうです。 山城さんの京都丹波レポート解禁まってます・・・・・

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