頼尊又四郎稲荷 篠山市
篠山藩主12代:青山忠裕が江戸両国での将軍上覧相撲で、他藩に比べ田舎の草相撲力士では歯もたたず、成績悪く・いつもは真っ先に負け続け不機嫌だった藩主も此の年:文政3年(1820)の場所は違っていた。全員勝続けて負け嫌いの藩主は上機嫌だった…負け嫌い稲荷の伝承で、此れ等の力士の中に頼尊又四郎がいる。力士は全て丹波の稲荷社の守神の名だが頼尊又四郎稲荷神社は少し他と違う…!?。
篠山藩主4代目(形原)松平康信の甥に又四郎がいたが藩主の威を笠に着ての奔放無頼。周囲の者の忠告も藩主:康信により直接意見をしても改まらず、不憫ながら止む無しと家臣達に命じて暗殺させた。其の場所が血寄せ地蔵の祀られるところ。其の後:町民達により祀られたのが篠山城からも近い東新町・黒岡川(篠山城外濠)の川傍に乙姫龍王社と並んで祀られていました。

篠山藩主4代目(形原)松平康信の甥に又四郎がいたが藩主の威を笠に着ての奔放無頼。周囲の者の忠告も藩主:康信により直接意見をしても改まらず、不憫ながら止む無しと家臣達に命じて暗殺させた。其の場所が血寄せ地蔵の祀られるところ。其の後:町民達により祀られたのが篠山城からも近い東新町・黒岡川(篠山城外濠)の川傍に乙姫龍王社と並んで祀られていました。
この記事へのコメント