奥ノ谷館 篠山市

今日も乳白色の霧が里の田や民家を包んでいます。漏れくる朝陽の中で少しずつこれらの姿が日常を取り戻してきます。霧の中で大きな古墳の影が、雲に浮かぶ様から「雲部とか雲辺」の名が付けられたものか…?
兵庫県下では2番目に大きいとされる前方後円墳 雲部車塚古墳が有る東本庄地区へ、篠山市の市街地から東北部の泉工業団地を通り小峠を越えて下ると、雲部の西本庄地区に入ります。 此のカーブするコーナの外側に雲部小学校が建つ。車塚古墳の約1km手前です。県道を外れて学校前から丘陵裾に沿って西本庄地区道があり、慈眼寺東側の小谷に架かる橋を渡ります。
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慈眼寺側を分ける此の谷が奥ノ谷で東側・南側へは緩やかな下りで、田畑が拡がり民家の点在する平凡な長閑な景観です。此の地:雲部は県守(あがたもり)の地名があり、車塚は:その被葬者を崇神天皇の代・四道将軍のひとり丹波道主命ともいわれて、宮内庁より陵墓参考地に指定されている古墳時代中期の国造級(くにのみやつこ)の墳墓と推定されています。
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周辺に幾つかの山城跡が残り八上城:波多野氏重臣で七頭の一・細工所城主で園部城主ともなった荒木氏綱の配下にあった武将の城だったと思われますが、これ等の城を詰め城とした居館だったか、それ以前:荘園時代の荘園代官の居館であったか城史等一切不明。数個・数段の平坦地が有るだけだが、田畑となって改変が著しいものか遺構も良くわからないが、篠山市の埋蔵文化財分布地図を手懸かりに、立地位置や状況からは居館跡と思える奥ノ谷館に行ってみました。


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