国境の宿場町:佐治城東郭 丹波市
京都~篠山に通じる京街道や能勢・池田等の摂津道から篠山を経て丹波市に入ると、遠くに望む峰々の向こうは但馬国。その国境に接した青垣町からの峠を越え生野や北播磨(多可・西脇方面)や多くの歴史を刻む但馬から出雲への延喜式山陰(出雲)道が遠阪峠を越え但馬(朝来郡和田山町)へ、千原峠(手掘りの小さなトンネルと導標石地蔵が残る)を越えて福知山市(夜久野)から丹後へ向かう
巡礼道・丹後道が要衝の街道筋に向って突き出す尾根先に沿ってクランクする町並みが宿場風情を強く感じさせます。交錯する交通の要衝に位置して”国境の宿場町:佐治宿がある。丹波路最後の旧佐治郷:その狭い町並に特産の丹波布や佐治つむぎ・和紙・養蚕も盛んだった頃の街道風情が残り明治期の製糸業で隆盛を極めた商家の建物が多く残り、街道中央部の郵便局・信金・西往寺を挟み込むように迫る
佐治城二ノ丸:上部中央に(埋め門?状の)土塁虎口
丘陵先端部の東西に二つの曲輪群をもつ佐治城(青梨城)がある。晩秋の紅葉を寸景に:先ず東郭へは八柱神社から、恵比寿・大黒の石像が微笑む祠の上部には東郭の主郭への搦め手道?が…城史不明で超ローカルな丹波の此の山城を独自に調査して訪城する物好きな人っているのかな?。小島意種が居城したとも?現状遺構からは
二ノ丸北端の虎口(北側下方から見上げる)
全国足立姓の祖:山垣城主・足立遠政が丹波佐治郷の地頭として承元3年(1209)武蔵国より来住し最初に居を構えたのが佐治宿の先・小倉の黒尾神社前付近とされるが、其の後天正期の明智丹波攻めに落城するまで此の地に残った足立氏支城として本拠城:山垣城の西の玄関を護っていたものと思いたいところです。
巡礼道・丹後道が要衝の街道筋に向って突き出す尾根先に沿ってクランクする町並みが宿場風情を強く感じさせます。交錯する交通の要衝に位置して”国境の宿場町:佐治宿がある。丹波路最後の旧佐治郷:その狭い町並に特産の丹波布や佐治つむぎ・和紙・養蚕も盛んだった頃の街道風情が残り明治期の製糸業で隆盛を極めた商家の建物が多く残り、街道中央部の郵便局・信金・西往寺を挟み込むように迫る
佐治城二ノ丸:上部中央に(埋め門?状の)土塁虎口
丘陵先端部の東西に二つの曲輪群をもつ佐治城(青梨城)がある。晩秋の紅葉を寸景に:先ず東郭へは八柱神社から、恵比寿・大黒の石像が微笑む祠の上部には東郭の主郭への搦め手道?が…城史不明で超ローカルな丹波の此の山城を独自に調査して訪城する物好きな人っているのかな?。小島意種が居城したとも?現状遺構からは
二ノ丸北端の虎口(北側下方から見上げる)
全国足立姓の祖:山垣城主・足立遠政が丹波佐治郷の地頭として承元3年(1209)武蔵国より来住し最初に居を構えたのが佐治宿の先・小倉の黒尾神社前付近とされるが、其の後天正期の明智丹波攻めに落城するまで此の地に残った足立氏支城として本拠城:山垣城の西の玄関を護っていたものと思いたいところです。
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