鴨野城 Ⅰ 丹波市
高見城が城主:仁木氏の頃は佐野城と呼ばれ、城下の加古川沿い・氷上町佐野からや柏原町鴨野から大手登城道があったと思う!!?が何れも急斜面登行。其の間にも高見城から急激に高度を落としながら北方へ延びだす長い尾根がある。稜線はR175号の氷上町稲畑から県道290号に入り柏原町へ越える萱刈坂で一旦寸断されるが、車道を挟んで続く丘陵尾根北末端の母坪城へと氷上町・柏原町境界を北端のR175号に裾を下ろすまで延びている。
萱刈坂を境に南尾根を高見城側へ・北尾根筋は母坪城まで…共に尾根上の其処此処に幾つかの城砦遺構を残す高見城城砦群は西に佐治川(加古川)を東には鴨野・新井・挙田郷の圃場(平野)が拡がる間を、延々続く細長い低丘陵の帯が高見城から見ても防波堤の様相です。萱刈坂から北への低丘陵上には鴨野城があり和泉・妙見等々の城砦群を経て穂壷城に至る。
萱刈坂の側:土砂採石場として削られた崖上の鴨野集落側の緩やかな箇所に3-4箇所の平坦地があり、一番広い(15x35m程?)曲輪の東側には2~3mの段差で3段程の帯曲輪が尾根と並行に長く雛壇状に。東下方への急斜面にも2~3段の曲輪?が残る。鴨野城からの主(西)尾根上遺構を谷屋砦として城域を分けていたが、段曲輪と思えるところは東尾根側(法泉寺曲輪<仮称>)からの山腹を巻込んで走る数段も此処数年で重機による拡張道が増え旧状は不明で様相が大きく改変した。
以前より採石場の上部にあった法泉寺曲輪<仮称>も、採石が進み・最南端の曲輪も削崩され消滅・主郭?部の外周・尾根筋上まで重機による拡張道で遺構判断出来なくなる、鴨野城南面の東西砦?名は:当地の遺跡分布調査報告書にも挙げられいないので当Web上からも削除するつもりです。
ところが城館遺構に限ってさえ、当地の遺跡分布調査報告書にないモノ!!が此処新井の郷の鴨野・北山・田路・小新屋…)だけでも他に3箇所程ある。なかでも東鴨野城(鴨野)の尾根東末端部の小新屋にある居館跡?は在地勢力には見られない特異な縄張り。所在は小新屋だが字名をとって東鴨野城館と仮称したいが、…背後の尾根筋‐禅座坂までの遺構を除き東鴨野城と一帯の遺構とは思えない。

萱刈坂を境に南尾根を高見城側へ・北尾根筋は母坪城まで…共に尾根上の其処此処に幾つかの城砦遺構を残す高見城城砦群は西に佐治川(加古川)を東には鴨野・新井・挙田郷の圃場(平野)が拡がる間を、延々続く細長い低丘陵の帯が高見城から見ても防波堤の様相です。萱刈坂から北への低丘陵上には鴨野城があり和泉・妙見等々の城砦群を経て穂壷城に至る。
萱刈坂の側:土砂採石場として削られた崖上の鴨野集落側の緩やかな箇所に3-4箇所の平坦地があり、一番広い(15x35m程?)曲輪の東側には2~3mの段差で3段程の帯曲輪が尾根と並行に長く雛壇状に。東下方への急斜面にも2~3段の曲輪?が残る。鴨野城からの主(西)尾根上遺構を谷屋砦として城域を分けていたが、段曲輪と思えるところは東尾根側(法泉寺曲輪<仮称>)からの山腹を巻込んで走る数段も此処数年で重機による拡張道が増え旧状は不明で様相が大きく改変した。
以前より採石場の上部にあった法泉寺曲輪<仮称>も、採石が進み・最南端の曲輪も削崩され消滅・主郭?部の外周・尾根筋上まで重機による拡張道で遺構判断出来なくなる、鴨野城南面の東西砦?名は:当地の遺跡分布調査報告書にも挙げられいないので当Web上からも削除するつもりです。
ところが城館遺構に限ってさえ、当地の遺跡分布調査報告書にないモノ!!が此処新井の郷の鴨野・北山・田路・小新屋…)だけでも他に3箇所程ある。なかでも東鴨野城(鴨野)の尾根東末端部の小新屋にある居館跡?は在地勢力には見られない特異な縄張り。所在は小新屋だが字名をとって東鴨野城館と仮称したいが、…背後の尾根筋‐禅座坂までの遺構を除き東鴨野城と一帯の遺構とは思えない。
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