庵我城(仮称) 福知山市
丹波は鬼の国:其の代表が大江山の酒呑(顛)童子だが、其の一の子分・茨木童子が棲んだのが福知山のランドマーク・烏ヶ岳の奥に峰を並べる鬼ヶ城で、此の鬼ヶ城には其の後:幾度か”丹波鬼”が逃げ込み・又籠城しています。天慶3年(940)の将門の乱に討死した平将門の子が遁れ此処に居たのではとの説。
永禄3年(1560)4月、無頼の徒・内藤駿河守(尾張守とも?)なる人物を頭に徒党の族(12~3人)が 近在に出没して掠奪・狼藉を働くので、丹波の国人が攻略した時には地元の豪族・横山氏・塩見氏等の地侍が此れを退治。天正3年(1575)明智光秀の丹波攻めでは黒井城主・赤井直正【丹波の赤鬼】配下の支城として釈迦牟尼仏靭負佐
(みくるべゆきえすけ)が居り、此処に拠り抵抗したという。その後天正6年(1578)秋、仁木氏・和田氏等が鬼ヶ城に拠っていて、近在に出没して狼藉するとの訴えに今度は明智光秀が源頼光役で鬼退治!!。この鬼ヶ城から派生する南西尾根の末端部に人知れず!?山城があり、南面の由良川に背を向け、鬼ヶ城を睨み
備えを丘陵尾根の南に無防備ながら北の山側に集中させた不思議の城!!?。消滅していても記載されている?福知山市史や遺跡分布図にノーマークの城だが:地名の池部城は既にあるので、庵我城(仮称)としています。

永禄3年(1560)4月、無頼の徒・内藤駿河守(尾張守とも?)なる人物を頭に徒党の族(12~3人)が 近在に出没して掠奪・狼藉を働くので、丹波の国人が攻略した時には地元の豪族・横山氏・塩見氏等の地侍が此れを退治。天正3年(1575)明智光秀の丹波攻めでは黒井城主・赤井直正【丹波の赤鬼】配下の支城として釈迦牟尼仏靭負佐
(みくるべゆきえすけ)が居り、此処に拠り抵抗したという。その後天正6年(1578)秋、仁木氏・和田氏等が鬼ヶ城に拠っていて、近在に出没して狼藉するとの訴えに今度は明智光秀が源頼光役で鬼退治!!。この鬼ヶ城から派生する南西尾根の末端部に人知れず!?山城があり、南面の由良川に背を向け、鬼ヶ城を睨み
備えを丘陵尾根の南に無防備ながら北の山側に集中させた不思議の城!!?。消滅していても記載されている?福知山市史や遺跡分布図にノーマークの城だが:地名の池部城は既にあるので、庵我城(仮称)としています。
この記事へのコメント
だとすると、気になりますね。
まだまだ未確認の城郭が眠っていると思うとワクワクします。
寺院跡は地図上では親不知の北550m付近かと思っていましたが、西の穴裏峠側:豊富池の300m付近の丘陵の様ですな?
庵我城は有りましたか!!。庵我小学校背山143.9m三角点峰の山頂周辺ですが!!。
市史の全編に目を通したわけではなく中世・城郭関連で見ています。周辺には鬼ヶ城・横山(福知山城)・猪崎・将監(猪崎城の居館!?)・中村・池部等の諸城がリストアップされていますが、「丹波志」「天田郡志」等をも含めて再度見直す必要がありそうですね。庵我城の記載内容によっては、疑問の城の備えに解決の糸口が掴めるのかも・・!!?