晩秋の岩尾城 Ⅱ(城下) 丹波市山南町
一般登山でも山城への訪城でも同じですが、其の出発地点・目的地までの行程・下山途中で目にする数々の物・音・色・容にも感動を覚えるもの。殊に中世山城・近世:藩政時代に入って。廃城となった山城が使用された例はあっても、
登山口・和田小学校裏山の紅葉
築かれた山城はなく:築城は厳しい制限があった筈!!。在地国人・土豪が拠った山城は多く、要衝監視の街道筋や彼らが崇敬した神社・菩提寺等を中心に城下町の雛型等…その景観・風情が感じられるものです。岩尾城大手道入口に古城主:和田日向守の菩提寺があったが明智光秀の丹波攻めに焼失、新城を築城した木戸十乗坊
武家屋敷群跡付近の城通山妙閑寺から岩尾城を望む(前田玄以の武将で佐野下総守栄有)の弟が再興した親縁寺・その山門は岩尾城唯一の遺構として残っていたのだが…? 武家屋敷群が立ち並んでいた親縁寺東側の岩尾城を望む谷麓にはいかにも此処から城山へと思える城通山妙閑寺が建つ。
その少し東南に近世:鶴牧藩陣屋跡がある。柏原範織田家廃絶で天領となったが後:氷上郡内の所領は亀山藩(亀岡市)領を初め細分化され、和田村(山南町)には氷上・天田・船井郡に7000石を領した水野周防守が領有し統治している。
その東北方には延喜式内社:狭宮神社が在り、岩尾城主佐野下総守から鶴牧藩主へと替わっても代々世襲されてきた丹波猿楽の能面は山南町指定文化財として小尉面・一面が残りますが、面掛神事能が復活してあでやかに行われている。
登山口・和田小学校裏山の紅葉
築かれた山城はなく:築城は厳しい制限があった筈!!。在地国人・土豪が拠った山城は多く、要衝監視の街道筋や彼らが崇敬した神社・菩提寺等を中心に城下町の雛型等…その景観・風情が感じられるものです。岩尾城大手道入口に古城主:和田日向守の菩提寺があったが明智光秀の丹波攻めに焼失、新城を築城した木戸十乗坊
武家屋敷群跡付近の城通山妙閑寺から岩尾城を望む(前田玄以の武将で佐野下総守栄有)の弟が再興した親縁寺・その山門は岩尾城唯一の遺構として残っていたのだが…? 武家屋敷群が立ち並んでいた親縁寺東側の岩尾城を望む谷麓にはいかにも此処から城山へと思える城通山妙閑寺が建つ。
その少し東南に近世:鶴牧藩陣屋跡がある。柏原範織田家廃絶で天領となったが後:氷上郡内の所領は亀山藩(亀岡市)領を初め細分化され、和田村(山南町)には氷上・天田・船井郡に7000石を領した水野周防守が領有し統治している。
その東北方には延喜式内社:狭宮神社が在り、岩尾城主佐野下総守から鶴牧藩主へと替わっても代々世襲されてきた丹波猿楽の能面は山南町指定文化財として小尉面・一面が残りますが、面掛神事能が復活してあでやかに行われている。
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