八幡山城・明智丹波攻めの陣城 丹波市
メルヘンチックな駅舎を出て、バチさばきと・扇の舞を披露するつつじ太鼓のカラクリ時計を国道沿いに見て南波金兵衛の石燈籠を右に見て柏原藩織田陣屋の長屋門を通り・天然記念物の木の根橋のある八幡神社参道の鳥居前の観光案内所に着く。嘗て!?三丹一(丹波・但馬・丹後)の大祭として賑わいを誇った「柏原の厄神さん」が此の八幡神社境内で丹波の名工丹波佐吉の手になる狛犬が立つ。
神仏混淆の名残を留め・本殿背後には朱の三重塔が建つ。織田信長命による明智光秀の「丹波攻め」で焼失した神社は豊臣秀吉により修復・再建されたことは:厄神祭等で参詣者に繰返しスピーカーからガイダンスが流され・ご存知の方も…ただ此処に明智光秀が鐘ヶ坂の金山城から本陣を移して「丹波攻略」を急いだ事は触れられていない。八幡神社境内の丘陵部一帯から北の高八山への尾根筋にも曲輪を乗せた

大規模な「丹波黒井城攻め」の付城八幡山城があり、三重塔北斜面下の鞍部には大堀切が…堀切東下方に曲輪が見えるが、その下にも更に広い曲輪・その下方にも帯状の平坦地があって堀切は竪堀となり延び、これ等の曲輪の端が奥村川の崖上に延びており、尾根上の曲輪を繋ぐ堀底道・本殿が建つ位置が主郭・三重塔が櫓台とすると、四方を厳重に防備された堀切道北の廃屋となっているようだが……、
社務所兼宮司宅?は居館か参謀本部!!? 北の尾根筋は傾斜の緩い自然地形ですが、東西の斜面に目をやると二段の帯曲輪、切岸高い曲輪や櫓台状・堀・広い曲輪も数段にわたり残ります。私的には八幡山城のスケールは更に拡がり、西麓の大土塁を縫って田ステ女公園裏手の丘陵を繋ぐ部分も陣城に含まれるものと思うが!

神仏混淆の名残を留め・本殿背後には朱の三重塔が建つ。織田信長命による明智光秀の「丹波攻め」で焼失した神社は豊臣秀吉により修復・再建されたことは:厄神祭等で参詣者に繰返しスピーカーからガイダンスが流され・ご存知の方も…ただ此処に明智光秀が鐘ヶ坂の金山城から本陣を移して「丹波攻略」を急いだ事は触れられていない。八幡神社境内の丘陵部一帯から北の高八山への尾根筋にも曲輪を乗せた

大規模な「丹波黒井城攻め」の付城八幡山城があり、三重塔北斜面下の鞍部には大堀切が…堀切東下方に曲輪が見えるが、その下にも更に広い曲輪・その下方にも帯状の平坦地があって堀切は竪堀となり延び、これ等の曲輪の端が奥村川の崖上に延びており、尾根上の曲輪を繋ぐ堀底道・本殿が建つ位置が主郭・三重塔が櫓台とすると、四方を厳重に防備された堀切道北の廃屋となっているようだが……、
社務所兼宮司宅?は居館か参謀本部!!? 北の尾根筋は傾斜の緩い自然地形ですが、東西の斜面に目をやると二段の帯曲輪、切岸高い曲輪や櫓台状・堀・広い曲輪も数段にわたり残ります。私的には八幡山城のスケールは更に拡がり、西麓の大土塁を縫って田ステ女公園裏手の丘陵を繋ぐ部分も陣城に含まれるものと思うが!
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