田辺城(舞鶴城) 舞鶴市南田辺

JR西舞鶴駅近く田辺城は城の容(形)から舞鶴(ぶかく)城と呼ばれる。明治5年の廃城令に順次取り潰され廃城後は紀伊田辺の田辺藩と区別する為:舞鶴藩・町名も舞鶴町に改められた。京極氏・牧野氏による城改修による舞鶴城は、観光田辺城が語る大部分城史からみても舞鶴城の名は当らない。
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此の城の城史は:丹後守護だった一色氏を「丹後攻め」に滅ぼした信長方の細川藤孝・忠興父子の活躍のみが、特別大きく目立つ。明智光秀の三女(二女か?)珠子の夫君が忠興で、関が原合戦の前哨戦で西軍方大名に妻子に対する石田三成の人質作戦に、これを拒み自害を許されなかった為・家臣に槍か刀で吾身を討たせ、討った家臣も遺体が残らないよう屋敷に火をかけ自刃したと云う。キリシタン洗礼名をガラシャと呼ばれる丹後七姫伝説の一人。御存知ですよね…
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藤孝(幽斎)は心種園で僅かの寄せ集めた兵による田辺籠城古今伝授を紹介済。関ヶ原の戦功により細川藤孝・忠興父子は豊前中津に移封され、翌年京極高知が信州飯田から 12万3200…?7000石で入され、元和6年高知の死去で遺言により嫡男高広は宮津城に移り宮津藩主、次男高三が加佐郡35000石を分与されて元和8年(1622)田辺城に入り田辺藩が成立します。寛文8年(1668)京極高盛が但馬豊岡に転封されると、京都所司代の要職に就いていた牧野親成が河内国(?摂津国)から入封すると譜代大名領の田辺城として大改修され、明治維新を迎え・廃藩置県により廃城となるまで10代続いて牧野氏が居城します。


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