維新の志士:立石孫一郎 佐用郡
西播磨に上月城を訪れたが登山口に歴史資料館に隣接して望楼を備えた長屋門!?堂々の玄関口に掲げられた大谷總家大谷五左衛門xx表札からも当主代々:五左衛門名を継がれる旧家:大庄屋の大谷家。大谷家裏手に大谷家墓所があり宝筐印塔の貞治4年(1365)の銘文は・石造遺品の紀年銘は郡内最古で上月町(現:作用町)指定文化財(昭和63年3月23日)・墓所中央に建つ堂が赤松(円心)則村を祀る廟所だろうか?。
資料館を前にしては此の旧家に関心を示し更には:道端に立つ「赤松園心公廟所」と「明治維新志士:立石孫一郎生誕之地」の石標に気付く人は少ないのかも?。播磨赤松氏領内に赤松氏・上月氏を伝える史蹟が極端に少ないと感じるだけにホッとする。出雲の尼子氏と山中鹿之介は尼子氏再興を夢見て織田に付き上月城に籠城するが、其の織田氏が援軍どころか引揚げ・捨て置かれての無念の落城。
上月城:山中鹿之介と同様の悲運な人物が上月城の山麓にいた。夢半ば:味方とする軍の銃弾を浴び・維新の夜明けを待たずに散った勤皇の志士:目前に夢を潰えた人物がいた。人気の坂本龍馬を知らぬ人は少なだろう!・中岡慎太郎や吉田松陰等の同志のなかでも討幕の魁となり・維新を目前に散った立石孫一郎の名を播磨・備前・美作以外の人には殆ど知られていないのでは?。私も日本歴史人物事典(朝日新聞出版)等で後日知った立石孫一郎が此の大庄屋:大谷家長子として生まれた大谷恵吉で、家督を継ぐが藩役人との衝突で家を出て母方の美作に寄食。翌:嘉永元ー2年(1848‐9)倉敷の庄屋大橋家婿養子に入り大橋敬之助を名乗り其の後:尊皇攘夷の志士となり立石孫一郎と改名し慶応元年(1865)長州藩奇兵隊に入隊。翌慶応2年:第二奇兵隊隊士が脱営して、倉敷代官所や総社市の浅尾藩陣屋を襲撃したリーダーが立石孫一郎という!?。備中松山藩・岡山藩の追討を受け・頼りとした長州藩の銃撃に倒れた立石孫一郎もまた・山中(鹿之介)幸盛から約290年の時代を経て、またも無視された終焉の無念の運命に二人が重なって見えた。
資料館を前にしては此の旧家に関心を示し更には:道端に立つ「赤松園心公廟所」と「明治維新志士:立石孫一郎生誕之地」の石標に気付く人は少ないのかも?。播磨赤松氏領内に赤松氏・上月氏を伝える史蹟が極端に少ないと感じるだけにホッとする。出雲の尼子氏と山中鹿之介は尼子氏再興を夢見て織田に付き上月城に籠城するが、其の織田氏が援軍どころか引揚げ・捨て置かれての無念の落城。
上月城:山中鹿之介と同様の悲運な人物が上月城の山麓にいた。夢半ば:味方とする軍の銃弾を浴び・維新の夜明けを待たずに散った勤皇の志士:目前に夢を潰えた人物がいた。人気の坂本龍馬を知らぬ人は少なだろう!・中岡慎太郎や吉田松陰等の同志のなかでも討幕の魁となり・維新を目前に散った立石孫一郎の名を播磨・備前・美作以外の人には殆ど知られていないのでは?。私も日本歴史人物事典(朝日新聞出版)等で後日知った立石孫一郎が此の大庄屋:大谷家長子として生まれた大谷恵吉で、家督を継ぐが藩役人との衝突で家を出て母方の美作に寄食。翌:嘉永元ー2年(1848‐9)倉敷の庄屋大橋家婿養子に入り大橋敬之助を名乗り其の後:尊皇攘夷の志士となり立石孫一郎と改名し慶応元年(1865)長州藩奇兵隊に入隊。翌慶応2年:第二奇兵隊隊士が脱営して、倉敷代官所や総社市の浅尾藩陣屋を襲撃したリーダーが立石孫一郎という!?。備中松山藩・岡山藩の追討を受け・頼りとした長州藩の銃撃に倒れた立石孫一郎もまた・山中(鹿之介)幸盛から約290年の時代を経て、またも無視された終焉の無念の運命に二人が重なって見えた。
この記事へのコメント
維新の志士立石孫一郎の標柱を見つけた時、どんな人物だろう?と思ってましたが、激動の人生を送った人物だったんですね。
あの大谷家の人だったんですね。
私も上月城のアップを準備中ですが、ぜひこの立石孫一郎の事も紹介しようと思ってます(^。^)
この大谷家は 上月城山上の 赤松政範顕彰碑を建立した 政範の?末裔 大谷氏ではなかったのかな・・?と思っているのですが家系までは調べ切れません。なんせ円心の廟所を建て祀られている大谷家ですから!!
山城は 摂津攻め も考えてみたいところですが 丹波攻めはYORIさん 負担にならない超低山で見所多いところ を検討中