上月城 佐用郡上月町
上月城には二つの上月城が在り鎌倉時代:播磨を支配していた赤松一族の徳平則景の弟・頼景が上月氏を名乗って正治年間(1199-1201)に大平山に太平山上月城を築いたのが始まりと伝えられます。其の後:建武の乱に武功のあった上月次郎景盛が、延元元年(1336)大平山から荒神山の出城に城を移したのが荒神山上月城で現在(一般に)は荒神山上月城を上月城:上月古城は太平山城と呼ばれるようで、
歴史資料館のパンフにも上月合戦と尼子氏の忠臣:山中鹿之介終焉の地として荒神山上月城だけが脚光を浴びて紹介されています。出来れば二つの上月城を訪れたかったが、上月城を正面にして対峙する包囲網のうち支城の高倉山城と尾根続きに在って、高倉山城を攻めた秀吉の陣城(仁位山城)を訪ねた。
赤松氏と山名氏・毛利氏と尼子氏の因縁の対決や、中国毛利軍を攻める織田方の秀吉軍…上月合戦と呼ばれ合戦場としてのみ知られる上月城には赤松氏・上月氏等の在地領主の姿が消えると、三国要衝の国境の地に山名・毛利・尼子等めまぐるしく次々と他国の部将の拠る上月城は、領主の城ではなく其の城史を語る資料も稀薄の様子。冷たく熾烈な戦いだけの城は何も結果を残さない・虚しい犠牲者の死だけが歴史に積み残された城。

歴史資料館のパンフにも上月合戦と尼子氏の忠臣:山中鹿之介終焉の地として荒神山上月城だけが脚光を浴びて紹介されています。出来れば二つの上月城を訪れたかったが、上月城を正面にして対峙する包囲網のうち支城の高倉山城と尾根続きに在って、高倉山城を攻めた秀吉の陣城(仁位山城)を訪ねた。
赤松氏と山名氏・毛利氏と尼子氏の因縁の対決や、中国毛利軍を攻める織田方の秀吉軍…上月合戦と呼ばれ合戦場としてのみ知られる上月城には赤松氏・上月氏等の在地領主の姿が消えると、三国要衝の国境の地に山名・毛利・尼子等めまぐるしく次々と他国の部将の拠る上月城は、領主の城ではなく其の城史を語る資料も稀薄の様子。冷たく熾烈な戦いだけの城は何も結果を残さない・虚しい犠牲者の死だけが歴史に積み残された城。
この記事へのコメント