口榎原砦 福知

丹波市青垣町の佐治は但馬・丹後方面に向かう府県境尾根を背にした 丹波最北端の宿場町だったところ。全国足立氏の祖:足立氏の本拠:山垣城を西に見て榎峠を越えるか、氷上(丹波市)・天田(福知山市)・何鹿(綾部市)を領し、山名氏の但馬竹田城をも落とした猛将:黒井城主赤井氏・荻野氏は芦田氏から分かれたとも云われる芦田氏本拠の東芦田城山麓を抜け、穴裏峠を越えると、和久川沿いに福知山市街地に入る。
           土橋から単郭を廻る空掘
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京都丹波の天田郡(福知山市・旧夜久野町)の訪城では、其の墓碑銘に芦田・蘆田・足立・安達・荻野姓をよく見かける。兵庫丹波勢が南朝方として荻野氏や仁木氏について、其の後:北朝方の足利氏勢力で但馬に進出。戦国期の黒井城主:赤井・荻野氏一族が領主として天田郡を統治すると領内の国人・領主は其の勢力下に入ったと思われます。
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城史不詳ながら、兵庫丹波の城郭にない遺構見学に越境して京都丹波の山城を探索してみます。再訪の山城も多いが改めて穴裏峠越えの県道109号はよく利用するが、行き帰りに僅か1時間足らずで、隈なく見て廻れる小さな城が、R429号合流点近く、和久川沿いに在る口榎原砦。単郭の小さな城は三方を土塁空掘りが廻り、一箇所に土橋から・上り土塁を主郭に入る虎口が有る。空掘の外は北と西側下に広い屋敷跡とも思える曲輪があり、西側の広い果樹園・畑地の南端は和久川に面して土塁線が延びる。其の先(南)は崖状地形となっています。畑地としての改変は充分考えられますが、それにしては主郭側空掘土塁下の切岸から伸びる土塁が、果樹・畑地の途中で欠断しており、土塁が消えた部分が畑地や田圃に改変・削平されているのかも?。佐治街道や千原川から下夜久野へ抜ける街道監視の砦だったのでしょうか?。


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