玉巻城 丹波市
玉巻城(久下城)は治承4年(1180)源頼朝が平氏打倒の兵を挙げた際、久下次郎重光(熊谷直実の兄)が真っ先に頼朝の陣営に馳せ参じたので、その忠誠を賞賛し「一番」旗と家紋を賜わり後:栗作郷(丹波市山南町久下・上久下地区)の地頭職のほか:美作国印庄や伊豆国玉川庄の領家職に任ぜられ、承久の乱後に重光の孫久下中務丞直高が承久3年(1221)新補地頭として武蔵国大里郡久下保(埼玉県熊谷市)より一族挙げて此処栗作郷(後:久下庄)玉巻に来住する。
南北朝期久下弥三郎時重のときには足利氏に属し・元弘3年(1333)丹波篠村八幡宮(亀岡市)での旗揚げの際にも1番に馳せ参じた。足利尊氏が建武3年(1336)新田義貞らに敗れて丹波に逃がれ、また観応2年(1351)弟直義と争い孤立し嫡子義詮(よしあきら)と丹波路を石龕寺に逃れ久下時重は尊氏をよく防護した。尊氏が難を逃れた二重川(足利橋)・九州へ下る尊氏を送り石龕寺に逗留した義詮には天々宇知栗や久下城から金屋を通り石龕寺へ至るルートには十三塚伝承も伝わる。玉巻城の西山麓の金屋集落には久下時重屋敷があり一帯に武家屋敷群があったと思われるが、金屋背後(寺坂コース)等で丘陵を越えれば義詮が逗留する石龕寺・奥の院へ通じる。兵を常駐させなくとも有事には玉巻城・金屋から直接本隊を送り出せる近距離にある。
尊氏父子の危難を救った功績は大きく、久下氏一族は丹波・和泉大鳥(鳳!)庄・飛騨石浦郷・武蔵久下郷・丹後国河守庄の代官・宮津庄の地頭職等:所領10数ヶ所を与えられ、丹波国の有力国人領主となって隆盛を極めた最盛期を迎えますが、将軍義材に従い・細川政元が擁立する新将軍義澄との戦いに大敗、やがて黒井城赤井氏の麾下に入り、天正7年信長”丹波攻略”に明智の援軍:丹羽長秀等播磨からの総攻撃に落城。今に残る粗略な縄張りの城遺構の粗略さからは、とても鎌倉時代から続き、丹波守護代にも就いた(1年程だが)名門久下氏の350余年の歴史を秘める城跡の面影は無く寂しい限りです。
南北朝期久下弥三郎時重のときには足利氏に属し・元弘3年(1333)丹波篠村八幡宮(亀岡市)での旗揚げの際にも1番に馳せ参じた。足利尊氏が建武3年(1336)新田義貞らに敗れて丹波に逃がれ、また観応2年(1351)弟直義と争い孤立し嫡子義詮(よしあきら)と丹波路を石龕寺に逃れ久下時重は尊氏をよく防護した。尊氏が難を逃れた二重川(足利橋)・九州へ下る尊氏を送り石龕寺に逗留した義詮には天々宇知栗や久下城から金屋を通り石龕寺へ至るルートには十三塚伝承も伝わる。玉巻城の西山麓の金屋集落には久下時重屋敷があり一帯に武家屋敷群があったと思われるが、金屋背後(寺坂コース)等で丘陵を越えれば義詮が逗留する石龕寺・奥の院へ通じる。兵を常駐させなくとも有事には玉巻城・金屋から直接本隊を送り出せる近距離にある。
尊氏父子の危難を救った功績は大きく、久下氏一族は丹波・和泉大鳥(鳳!)庄・飛騨石浦郷・武蔵久下郷・丹後国河守庄の代官・宮津庄の地頭職等:所領10数ヶ所を与えられ、丹波国の有力国人領主となって隆盛を極めた最盛期を迎えますが、将軍義材に従い・細川政元が擁立する新将軍義澄との戦いに大敗、やがて黒井城赤井氏の麾下に入り、天正7年信長”丹波攻略”に明智の援軍:丹羽長秀等播磨からの総攻撃に落城。今に残る粗略な縄張りの城遺構の粗略さからは、とても鎌倉時代から続き、丹波守護代にも就いた(1年程だが)名門久下氏の350余年の歴史を秘める城跡の面影は無く寂しい限りです。
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