荒田神社 多可

播磨赤松氏家一族の在田氏は赤松範資の子:朝範が滝野・光明寺合戦に戦功があって足利尊氏から東播磨地方を領有、多可郡在田荘に移り在田姓を名乗り、貝野城・段ノ城の他、弟が分家して野間城(多可郡八千代区 野間山城や光竜寺山城)等を築いたが、天正3年荒田城合戦に同族赤松家の別所重棟連合軍の夜襲による奇襲を受け、二日余りの戦いに在田氏の城は次々落城。
       伝:うま繋ぎ場(帯曲輪)から西へ延びる土留め石列
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貝野城と段ノ城中ほどの山麓:安楽田にある在田氏居館の段垣内構居(荒田構居)や瑞光寺が焼き討ちされる。「播磨風土記」に荒れた田として・後世にも度々洪水で田が荒れ、村人は安楽に暮らせるようにと「安楽田」に改名されと伝えられる。大正の頃に土砂崩れで 廃村になったところもあると聞く。
     貝野城本丸から:中央左先端付近の森本城と山田錦を産する田園風景
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生野鉱脈の妙見山一帯は随所に中世~近世に至る採鉱跡の抗口が残り、其の汚水の害や保水力の弱さから洪水の要因ともなって、荒れた田となっているのかも。藩政時代には過酷な税・悪政に禁断の直訴により、減税は行われたが当人は”火あぶり”の刑に処せられ、明治期に義挙による顕彰碑が加美区熊野部に建つ。
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「播磨風土記」の道主日女(みちぬしひめ)命が私生児を生んだ。其処で父親を知ろうと酒を造り(此の地は山田錦発祥の地、勿論地酒も…)諸々の神を集めて酌ををさせたところ・最初に酒を注いだのが天目一命で、其の子の父であった事を知った。其の後・直ぐに田が全部荒れてしまったので”荒田”と名付けた云い、ますます鉱山・製鉄に関する影響が強いと推察されます。


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