豊地城 小野市

滝野社ICから県道564号(学園道路)を走り県立教育センターの標識を過ぎた付近”依藤野”の地名標識を見て長い坂道を下り始める地点に冷泉・依藤塚?がある。旧赤松氏家臣:依藤氏は嘉吉の乱に細川・山名の幕府軍と戦い城山城(たつの市)落城を知り自刃。其の後:依藤氏は赤松家再興に尽力し東条谷の豊地城を本拠に勢力をもつが、応仁の乱に赤松政則が山名氏との真弓峠(朝来市生野町)に
        観音堂の在る西郭の空堀跡
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大敗すると新赤松家臣団筆頭の別所氏との東播覇権争いに負け衰退。依藤氏の動向は不詳ですが三木合戦当初:三木細川荘の領主:冷泉為純・為勝父子が別所氏に攻められた際・冷泉家執事であった依藤太郎左衛門が援軍に駆けつけるが、結果敗走し依藤坂で主:冷泉為勝と共に自刃した依藤氏終焉!!の地。依藤塚からの下り坂が緩やかになる田園地帯の東丘陵に小沢城がある。
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享録3年(1530)の別所氏と戦った依藤城は平城の豊地城ではなく防御性の高い小沢城に拠ったものか!。県道75号線と合流して西走・小野市に入る所。東条川が大きく蛇行し中谷川が合流する地点に豊地城がある。依藤氏本城の平城で観音堂の建つ西郭に堀跡・東側に田圃を挟んで高さ4ー5mの高土塁が遺る主郭部へと内堀跡が延びる。その東に鎮座する八幡神社域が周辺の最高所で、
       八幡神社を囲む土塁線
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依藤氏時代の主郭が在ったところか?。豊地城は依藤氏の後に入った別所重棟により大規模改修されているようで、今回(H21~)の調査により堀跡の他・大量に出土した瓦からは戦国時代の県下には三木城・置塩城・御着城・端谷城・有岡城(伊丹城)等の有力城郭にのみ使用されている瓦葺建物だけに今回:貴重な発見となった。引続き調査予定が神社東周辺の外堀跡付近らしいが、東郭か依藤古城の主郭だったか‥?新発見に期待したいもの!!


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