大河ドラマ「江姫」外伝 信包

大河ドラマと呼ばれ・とり分け戦国の中世や江戸~近世夜明けの明治維新にかけて、傑出した一人物を描く時代劇には、実像に迫る表現や真意を追求されているのでしょうが、やはり視聴率みあいの!!?娯楽性重視で、10数年観ていない。じっくり連続ものを鑑賞する時間が無いのも要因の一つなのですが・・
     前期柏原藩藩主の代には実現しなかった居館(陣屋)の本殿
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今回の「督(江)・・姫たちの戦国」だったか?も同様で、物語の発端は小谷城落城から始まるのでしょうが、小谷城を訪れた際も、お市の方と茶々の名が浮かぶ程度で、初・お江の名も、まして織田信包(のぶかね)の登場は知らなかったが、丹波柏原藩織田家の前期初代藩主:信包が織田信長の弟で、小谷城主浅井長政に嫁いだ”お市の方”の兄で、伊勢上野城主のとき、お市の方と三姉妹を受け保護した事が、ドラマ内信包の最大重要出場場面なのでしょう。
     前期柏原藩織田家三代藩主を祀るおだ神社
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つぎは”江”16際の時に嫁ぐ、大野城主:佐冶与九郎のときか?。信包が伊勢の津城に移封されたとき、其の後:丹波柏原藩3万6千石大名に返り咲いた後の事や、信包の家老として、従った柏原藩織田家の家老:佐冶与九郎は既にドラマの群列からは離れ去る人物群なのでしょう!!?。丹波での信包や佐冶与九郎について知る資料は少ない?。屋敷も建てられず長い期間郷士・豪商の館に仮住まいが続き、信包が柏原に居た事は疑問視されてもいます。与九郎が城代家老として常駐して居たのでしょうが、その後の田辺城(舞鶴)せめに参戦・大阪城に秀頼の補佐役としても居り、加古川水系の治水・但馬丹後若狭に通じる山陰街道の整備にと領内の治安・行政に無策だったとも思えません。視察し指示したとは思えます‥。前期織田家は初代信包や与九郎も、2代目信信の墓所は柏原には無く、遺徳を偲ぶものが何も無さそう。
    前期柏原藩織田家三代藩主の菩提寺:成徳寺の信勝を祀る宝筐印塔
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信包~信勝へ三代続いた前期柏原藩織田家も継子無く改易となり、後期奈良・宇陀の織田信休が丹波に国替となるまで天領として続いた頃・100数カ所の村単位に60~80とも!!?(未調査)細分化されて、織田家や諸領主を監視する為もあってか?、諸藩の領主達が入り乱れ、そのため小領地の横領等小競り合いは無かった様ですが、氷上町由良付近に居館を置いた別所吉治(三木城主・長治の叔父:重宗の子)さえ!?堤防(十六丁畦)遺構を今に遺しています。秀吉により僅か2年余りで与九郎と別れさせられる”お江”は徳川2代将軍秀忠の正室となり、その子が三代将軍となる家光ですが、その乳母となるのが春日局。明智光秀の重臣:斉藤利三は黒井城落城後・丹波に領地を与えられ、黒井城に入り戦後処理の為、山麓の興禅寺を居館とし、此処に生まれたという”お福”が後の春日局ですね。
     前期織田家三代目:信勝の宝筐印塔を祀る成徳寺


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