野村構居 西脇市

西脇城の南方、杉原川が流れ出た加古川の合流点を渡る加古川線の橋梁の南約350m下方の右岸に野村構居(野村城)がある。昭和から平成に変わって間もなく廃線となった鍛冶屋線に接続する野村駅は:西脇市駅と名称は変わったが今も?福知山線に接続する終点谷川駅へは本数も減り・いつも此処で乗換え:長い時間待ち合わさせられた記憶だけは覚えている
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西脇市駅から東へ500m・加古川の架かる野村橋(H23.1 新設工事)の西詰め南側にあって車道の傍らに諏訪神社の小さな祠が祀られている。野村城城主上原氏は信州諏訪氏一族の上原氏との関わりが推察される。上原氏は戦国時代:北播磨の覇者在田氏の被官人となり:5代目重隆は明徳の乱(1391)に活躍・6代目秀重は嘉吉の乱(1441)に赤松満祐を諌めた人としても知られる。
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旧赤松家臣:在田(有田)氏の被官人:上原兼親は永禄2年(1558)北播磨進出を狙う同族赤松家で急速に台頭してきた!!三木城別所長治の叔父重棟と戦い夜襲を受けて落城し上原兼親は自刃する。この野村構居の西南(直線距離で1.5km程)にある鳴尾山城が其の”詰め城”とも云われる。構居は加古川に面し、河川を交通と自然の濠としての要害地・河原の内側にも磐岩を割っての引水溝?があって、船着場となっていたとも思える城址遺構!?<専門家でもないので城遺構か、自然の造形か判断できない>を見るが、現在進行中の河川改修工事で、露岩帯や溝等は・全て砂利で埋め均されて跡形無し‥。上原兼親・有田重則の墓碑と顕彰碑・堀跡の西北隅に櫓台か?土塁跡を残すだけの上原神社の台地が、野村構居跡を偲ばせます。


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