鳴尾山城 西脇市
西脇市の市街地から西南に望む鳴尾山(なきやま)は丘陵北端の断崖状急斜面を野間川沿いの、加西市や多可郡八千代・中野間方面を結ぶ県道34号線に落ち込む。送電線鉄塔を乗せる山稜尾根部に台形地形をみせる尾根端の山頂部に鳴尾山城がある。野村城(野村構居)の”詰め城”だったと推定され野村山城とも呼ばれ、
北播磨に勢力をもっていた赤松家一族の在田(有田)氏の被官人:上原氏の城と考えられています。旧赤松家一族の依藤氏・在田氏等は応仁の乱以後!?に急速に勢力をもってきた別所氏が東播磨・北播磨へ進出を狙い野村構居の上原氏は永禄元年(1558)別所重棟の夜襲を受けて落城し城主上原兼親は自刃します。翌:永禄2年には東条谷の依藤氏の豊地城をせめ落とし大改修を行い三木城の北の押さえと北播磨侵攻の拠点としています。
天正3年(1575)には有田(在田)朝勝の段の城・貝の城から本拠・野間山城へと丹波朝日城主の荻野直正(後:黒井城主赤井悪右衛門直正)や森本城(多可郡中町)主等の連合軍により、鳴尾山城を始め・次々と有田氏の諸城は短期間(数日で)落とされていきます。落城後の鳴尾山城には別所氏配下の栗山氏が居城?したと云われます。20㎡程の主郭に帯曲輪を廻す単郭の砦クラスの小城ですが、切岸加工を整え井戸跡・石垣・石積みを遺す残存状態の良い城址です。冬枯れの時期を除けば薮に埋もれて見過される事の多い遺構ではありますが!!

北播磨に勢力をもっていた赤松家一族の在田(有田)氏の被官人:上原氏の城と考えられています。旧赤松家一族の依藤氏・在田氏等は応仁の乱以後!?に急速に勢力をもってきた別所氏が東播磨・北播磨へ進出を狙い野村構居の上原氏は永禄元年(1558)別所重棟の夜襲を受けて落城し城主上原兼親は自刃します。翌:永禄2年には東条谷の依藤氏の豊地城をせめ落とし大改修を行い三木城の北の押さえと北播磨侵攻の拠点としています。
天正3年(1575)には有田(在田)朝勝の段の城・貝の城から本拠・野間山城へと丹波朝日城主の荻野直正(後:黒井城主赤井悪右衛門直正)や森本城(多可郡中町)主等の連合軍により、鳴尾山城を始め・次々と有田氏の諸城は短期間(数日で)落とされていきます。落城後の鳴尾山城には別所氏配下の栗山氏が居城?したと云われます。20㎡程の主郭に帯曲輪を廻す単郭の砦クラスの小城ですが、切岸加工を整え井戸跡・石垣・石積みを遺す残存状態の良い城址です。冬枯れの時期を除けば薮に埋もれて見過される事の多い遺構ではありますが!!
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