西倉城(仮称) 丹波市青垣町
新年あけまして おめでとうございます
今年も新たな人生の儚い?時間を刻み始めました。
新春:初ブログは BIGニュースで始めたいところですが砦規模の小規模な城砦の紹介から。
主郭部:帯曲輪から主曲輪の切岸但馬の朝来市に境する青垣町は全国足立姓の祖:足立遠政が承元3年(1209)氷上郡佐治郷の地頭職を任命され関東から入部し山垣城を本拠とします。平安時代の保元3年(1158)とも鎌倉時代の元徳年間(1329-31)の頃とも云われ明確ではないが、いずれにしても丹波市では最古級の芦田(葦田)氏が山室城を本拠としています。源満実の三男:井上(芦田)家光が信州信濃・芦田庄小室から来住し、名を井上から芦田と改め芦田氏の祖となっており、氷上郡から天田郡まで領した赤井氏と一族荻野氏は此の芦田氏から分かれたとする説もあります。
主郭尾根側を遮断する堀切
県道7号線「沼」から穴裏峠を越え福知山市に入る芦田川沿いを芦田氏が、「沼」から約4km北方の「佐冶」からR427号を遠坂川沿いを、足立氏が領し隣接する領地問題では小競り合いもあったが、一族滅亡の危機となる様な大きな争いには発展しなかったようです。【後:赤井・荻野氏に対抗した芦田氏・足立氏の連合軍が香良合戦において両族滅亡の大危機を迎えてもいます】2008.12~2009.05年にかけて東芦田地区に瑞雲寺城(仮称)のA.B.C・穴裏峠城(仮称)・滝の奥砦(仮称)、また氷上町にも隠れ谷砦(鴨内城)<仮称>等 芦田氏城塞群と思われる山城を発見、いずれも県や市の遺跡調査分布地図等報告書や、市町村誌等の郷土史にも記載を見ない。
主郭部南の土橋付き堀切西芦田地区に芦田一族の栗住野治朝が拠った、奥丹波では珍しい平城栗住野城の北、祖父祖父堂のある宝林寺と県指定宝筐印塔とツキ山古墳のある丘陵裾野の間に延び出す低丘陵末端部に在った西倉城(仮称)の案内です。市や県の遺跡分布に記載のない空白地帯に、西倉古墳(横穴式石室を持つ円噴かどうか未確認…)が示されてはいるが!!.。南郭部・手前の帯曲輪からクランクして麓まで落ちる竪堀は出撃用シューターの様?
本曲輪(10㎡)を尾根すじに広い帯曲輪が捲く主郭部の尾根側を堀切、前方は土橋付き堀切で区分し、更に南へ三段程の段曲輪 曲輪部からクランクして落ちる一条の竪堀を見るが、城域は全長7~80m程の小城砦とはいえ、こんなところに!!?と新発見は感動もの。周辺の地理や字名等を調べていくと矢っ張り…あった。中殿屋敷も一帯の敷地内?。詰城だったか?城主・城史一切不明・素人判断の推論は許されるのかは知りませんが?


今年も新たな人生の儚い?時間を刻み始めました。

新春:初ブログは BIGニュースで始めたいところですが砦規模の小規模な城砦の紹介から。
主郭部:帯曲輪から主曲輪の切岸但馬の朝来市に境する青垣町は全国足立姓の祖:足立遠政が承元3年(1209)氷上郡佐治郷の地頭職を任命され関東から入部し山垣城を本拠とします。平安時代の保元3年(1158)とも鎌倉時代の元徳年間(1329-31)の頃とも云われ明確ではないが、いずれにしても丹波市では最古級の芦田(葦田)氏が山室城を本拠としています。源満実の三男:井上(芦田)家光が信州信濃・芦田庄小室から来住し、名を井上から芦田と改め芦田氏の祖となっており、氷上郡から天田郡まで領した赤井氏と一族荻野氏は此の芦田氏から分かれたとする説もあります。
主郭尾根側を遮断する堀切
県道7号線「沼」から穴裏峠を越え福知山市に入る芦田川沿いを芦田氏が、「沼」から約4km北方の「佐冶」からR427号を遠坂川沿いを、足立氏が領し隣接する領地問題では小競り合いもあったが、一族滅亡の危機となる様な大きな争いには発展しなかったようです。【後:赤井・荻野氏に対抗した芦田氏・足立氏の連合軍が香良合戦において両族滅亡の大危機を迎えてもいます】2008.12~2009.05年にかけて東芦田地区に瑞雲寺城(仮称)のA.B.C・穴裏峠城(仮称)・滝の奥砦(仮称)、また氷上町にも隠れ谷砦(鴨内城)<仮称>等 芦田氏城塞群と思われる山城を発見、いずれも県や市の遺跡調査分布地図等報告書や、市町村誌等の郷土史にも記載を見ない。
主郭部南の土橋付き堀切西芦田地区に芦田一族の栗住野治朝が拠った、奥丹波では珍しい平城栗住野城の北、祖父祖父堂のある宝林寺と県指定宝筐印塔とツキ山古墳のある丘陵裾野の間に延び出す低丘陵末端部に在った西倉城(仮称)の案内です。市や県の遺跡分布に記載のない空白地帯に、西倉古墳(横穴式石室を持つ円噴かどうか未確認…)が示されてはいるが!!.。南郭部・手前の帯曲輪からクランクして麓まで落ちる竪堀は出撃用シューターの様?
本曲輪(10㎡)を尾根すじに広い帯曲輪が捲く主郭部の尾根側を堀切、前方は土橋付き堀切で区分し、更に南へ三段程の段曲輪 曲輪部からクランクして落ちる一条の竪堀を見るが、城域は全長7~80m程の小城砦とはいえ、こんなところに!!?と新発見は感動もの。周辺の地理や字名等を調べていくと矢っ張り…あった。中殿屋敷も一帯の敷地内?。詰城だったか?城主・城史一切不明・素人判断の推論は許されるのかは知りませんが?
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