大河城 丹波市
京都丹波・兵庫丹波は丹後・但馬・播磨を繋ぐ要衝で、京の都と地方の産業・文化の交差点ともなっているが、都での権力闘争に敗れ京を追われた敗者が真っ先に選ぶ逃避先。追手もまた丹波に侵攻し戦いの絶える時期は殆んどなかったかも…? 足利高氏や細川氏の内紛荒神山城の足利義尹等で丹波の地侍を頼っての逃走は、
大河城低郭(南郭)の南面:帯曲輪の石垣丹波内にも多くの呼応する諸城砦群・其れに対峙する諸城砦が築かれ、中世城郭の残存城砦は全国有数の地帯…!!なのだが、丹波市の調査等は氷上郡から丹波市となった後も市史の編纂に関わる再調査等に進展をみないだけに、未調査・空白地帯が多くて新発見!!?の城砦に遭遇する機会は多い。
大河城低郭(南郭)の北面:主郭と北帯曲輪西端から落ちる竪堀と竪土塁?段曲輪・帯曲輪・堀切・竪堀は確認されているが丹波市に黒井城・岩尾城を除けば石垣・石積や虎口形状の遺構を観る例を見ない大河城が旧郡史・町史にも存在が記されていないのは残念。4等三角点(点名:オオ谷265m)に石塁のマウンド状(見張り台跡?)があり、小さな鞍部の北・最高地点の主郭には切岸に石列・石積を観る。
大河城高郭部(北郭)の主郭北面の石積・石列尾根の南端付近の丘陵には土塁道沿いに段曲輪・竪堀・虎口形状の空掘道と虎口受け曲輪等縄張り駆使の堅固な防衛施設ある。石垣跡も観られる。低位置に南郭・途中の尾根上に特に城遺構は気付かないが集落背後の南郭と尾根続の北方・最高所にも”逃げの城”・”詰め城”性格の強い北郭を置く。尾根筋南の大河集落と北方の北太田集落からの尾根北方からの侵攻を守備する一城別郭の城か。
大河城低郭(南郭)の南面:帯曲輪の石垣丹波内にも多くの呼応する諸城砦群・其れに対峙する諸城砦が築かれ、中世城郭の残存城砦は全国有数の地帯…!!なのだが、丹波市の調査等は氷上郡から丹波市となった後も市史の編纂に関わる再調査等に進展をみないだけに、未調査・空白地帯が多くて新発見!!?の城砦に遭遇する機会は多い。
大河城低郭(南郭)の北面:主郭と北帯曲輪西端から落ちる竪堀と竪土塁?段曲輪・帯曲輪・堀切・竪堀は確認されているが丹波市に黒井城・岩尾城を除けば石垣・石積や虎口形状の遺構を観る例を見ない大河城が旧郡史・町史にも存在が記されていないのは残念。4等三角点(点名:オオ谷265m)に石塁のマウンド状(見張り台跡?)があり、小さな鞍部の北・最高地点の主郭には切岸に石列・石積を観る。
大河城高郭部(北郭)の主郭北面の石積・石列尾根の南端付近の丘陵には土塁道沿いに段曲輪・竪堀・虎口形状の空掘道と虎口受け曲輪等縄張り駆使の堅固な防衛施設ある。石垣跡も観られる。低位置に南郭・途中の尾根上に特に城遺構は気付かないが集落背後の南郭と尾根続の北方・最高所にも”逃げの城”・”詰め城”性格の強い北郭を置く。尾根筋南の大河集落と北方の北太田集落からの尾根北方からの侵攻を守備する一城別郭の城か。
この記事へのコメント
大規模精錬所を備えた鉱山への出入口。監視なら銀山城以上に通行・運搬道の重要箇所と思えます。
杉生城・若城の北や愛宕山城の西・・は丹波・摂津三田・宝塚の国境に接する一帯 中世期の能勢氏と塩川氏の勢力や城の縄張・規模からみても、丹波・三田北部を領していた守護代クラスの波多野氏や、三田側の赤松氏一族の領主と国境を超えて覇を競う余裕は無かったかも?
要衝でもなく・・お咎め覚悟で横領するほどの領地があるとも思えません?。郡単位・国単位で一帯を制した守護代クラスでも、紛争の種になりそうな国境に城を築く事は室町末期ころまでは無かったかも・・!!?。ただ杉生から猪名川発電所付近から山田川沿いなら、両勢力の砦が在りそうですね?。
奥猪名健康の郷付近だと荘園官吏の館と、谷沿いに山辺・山田間を越えるルートは要注意ですね。能勢町側に山城群が多いところ。猪名川町側は杉生新田や・鎌倉〜杉生への侵攻ルートは要警戒域ですね。梅雨入が早くなりそう?・夏は猛暑日が長く続きそうと、例年より悪条件となりそうですが調査頑張ってください。