石龕寺もみじまつりⅣ 丹波市
丹波市山南町内の名刹:慧日寺・常勝寺と石龕寺が「山南三山」と呼ばれるが、なかでも紅葉の名所で知られる石龕寺は青垣町の高源寺・氷上町の円通寺と並び丹波市の紅葉三山として紅葉狩ツアーの観光名所ともなっている。
日吉神社をスタートする武者行列の尊氏・義詮親子 高源寺は全国足立姓の祖・山垣城主:足立遠政の孫(足立光基の三男)遠渓が後醍醐天皇より号を得て開山された寺。円通寺は後円融天皇の勅願・将軍:足利義満の創建により足利尊氏の四男英仲法俊を開山に迎えている。そして石龕寺は南北朝期・都を追われた足利尊氏が二度も逃れてきたところ。当日のトーキー・ガイドや新聞等の記事に室町時代…とあるが、こと足利氏に関しては足利(室町)幕府の初めは南北朝を統一して発足する・明徳(1390〜)から始まる室町時代であり元亀年間終焉を迎え、織田信長・秀吉の安土桃山時代が始まる。同じ中世期ではあっても明徳の乱後に南北朝を統一・足利氏の室町幕府を切り分けて説明が欲しいものと考えます。尊氏が久下氏を頼って此の地に逃れてきた契機は、都に仕えた尊氏側近の中澤氏(関東以来…天正の丹波攻めに明智に抗して落城まで(篠山市:大山城主他)とは同族以上の信頼関係で深い繋がりがあった!!久下氏(山南町:玉巻城主)を頼っての事…久下氏が尊氏の挙兵を知り一番に篠村に駆け付ける事が出来たのも、中沢氏より事前に知らせを受けていたのかも…。
足利橋(二重川)久下氏の一番旗の事・最初に逃れ・落ち武者探索の際に身を隠した岩屋谷川の橋下が、二重川(天井川)のため発見される事なく難を逃れた足利橋(昔の面影はなくなったが:延喜式山陰街道でもあった)の話。
二度目が嫡男:義詮(よしあきら)を伴い石龕寺に逗留。義詮を護ったのが丹波守護となった仁木賴章と久下氏・荻野氏・波々伯部氏等の丹波武士。九州へ下がった尊氏が僅か2ヶ月余り・怒涛のように上洛して来るまで留まった岩屋の里に残る爪あと栗(ててうち栗)の伝承も・寺に至る迄に今も遺る町石の事も…
仁王門からは下馬・徒歩で毘沙門堂に向かう開基:聖徳太子の兜の毘沙門像は西光寺山の机峠の伝説ともリンクする岩屋山の頭光嶽や、南方から石龕寺に至る町石道は久下氏の栗作郷から続き、身を呈し尊氏の影武者となって倒れた伝説の十三塚(古代祭祀遺跡!?)や義詮の戦勝祈願に纏わる金屋不動尊もある。観光PRの「もみじまつり」の解説からは殆ど外されているようですが、古刹の歴史や数々の伝承・僅かに遺る其の遺構や伝承地も大切に残し伝えていきたいものです。石龕寺は用明天皇の587年(用明2)聖徳太子を開基とする古刹で、太子が深く帰依した自彫の毘沙門天を本尊とし正平6年(観応2年 1351)京を追われた足利尊氏親子が栗作郷の久下氏を頼って石龕寺に逃れます。大河ドラマ「太平記」を機に”村おこし”記念行事で始められた祭り?だけに、歴史を正確に伝えていくことも大切かも…もみじまつりの武者行列は仁王門【金剛力士立像は仁治3年(1242)仏師・肥後法橋定慶の作で、国の重要文化財に指定されています】迄で下馬・此処より毘沙門堂まで徒歩で進みます。此処から毘沙門堂まで・伝統行事なら神聖で!?最重要なフィナーレ部だが、此でも武者として参列の自治会役員に・報道関係者?が付き纏い取材する態度はいかがなものか…?個人インタビューなら参拝後の解散時に、行事関連詳細なら事前に自治会スタッフの方が詳しい筈?。またスタート地点や途中・休憩中に取材する充分な時間は有る筈。尊氏も此の毘沙門天に武運を祈願したことでしょう。武者行列の参拝後・先導してきた山伏(岩屋地区石龕寺檀家・奉賛会)により参拝者の健康を祈願する護摩法要が行われますが、事を理解しないカメラマンが綱を張った結界内に入り込む。カメラアングルやシャッターチャンスは常識の節度内で…と思うのですが、思いやる気持ち・優しさ・自分がこの場にいる感謝の気持ちさえ忘れ、自分さえ良ければ…北朝鮮・日本サッカー試合で北朝鮮アウエーでの観戦模様をニュースで見たばかりなので、日本アウエーでも日本人が対戦国に対して同じ態度をとるような「心無し」の国民にはなって欲しくないものです。
毘沙門堂の石垣と紅葉天正7年(1579)織田信長の”丹波攻め”では明智光秀の援軍として播磨方面より羽柴長秀・細川藤孝軍が、久下氏の玉巻城・西波多野氏の霧山城、此処:石龕寺城(岩屋城)に拠る広沢氏を攻め、麓の石龕寺は仁王門を焼け残しただけで、兵火により一山尽くが焼失した。
石龕寺モミジの紹介画像に見かけないようだが?、此処の”もみじの観賞”は仰ぎ見るだけでなく、毘沙門堂から見下ろして見る紅葉の美しさを特筆しておきます。
仁王門を潜り始まる紅葉のトンネル 参考までに…過去の石龕寺もみじまつり(ブログ)… ↓
2010年→ https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/201012article_5.html
2009年→ https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/200911article_10.html
2007年→ https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/200711article_18.html
日吉神社をスタートする武者行列の尊氏・義詮親子 高源寺は全国足立姓の祖・山垣城主:足立遠政の孫(足立光基の三男)遠渓が後醍醐天皇より号を得て開山された寺。円通寺は後円融天皇の勅願・将軍:足利義満の創建により足利尊氏の四男英仲法俊を開山に迎えている。そして石龕寺は南北朝期・都を追われた足利尊氏が二度も逃れてきたところ。当日のトーキー・ガイドや新聞等の記事に室町時代…とあるが、こと足利氏に関しては足利(室町)幕府の初めは南北朝を統一して発足する・明徳(1390〜)から始まる室町時代であり元亀年間終焉を迎え、織田信長・秀吉の安土桃山時代が始まる。同じ中世期ではあっても明徳の乱後に南北朝を統一・足利氏の室町幕府を切り分けて説明が欲しいものと考えます。尊氏が久下氏を頼って此の地に逃れてきた契機は、都に仕えた尊氏側近の中澤氏(関東以来…天正の丹波攻めに明智に抗して落城まで(篠山市:大山城主他)とは同族以上の信頼関係で深い繋がりがあった!!久下氏(山南町:玉巻城主)を頼っての事…久下氏が尊氏の挙兵を知り一番に篠村に駆け付ける事が出来たのも、中沢氏より事前に知らせを受けていたのかも…。
足利橋(二重川)久下氏の一番旗の事・最初に逃れ・落ち武者探索の際に身を隠した岩屋谷川の橋下が、二重川(天井川)のため発見される事なく難を逃れた足利橋(昔の面影はなくなったが:延喜式山陰街道でもあった)の話。
二度目が嫡男:義詮(よしあきら)を伴い石龕寺に逗留。義詮を護ったのが丹波守護となった仁木賴章と久下氏・荻野氏・波々伯部氏等の丹波武士。九州へ下がった尊氏が僅か2ヶ月余り・怒涛のように上洛して来るまで留まった岩屋の里に残る爪あと栗(ててうち栗)の伝承も・寺に至る迄に今も遺る町石の事も…
仁王門からは下馬・徒歩で毘沙門堂に向かう開基:聖徳太子の兜の毘沙門像は西光寺山の机峠の伝説ともリンクする岩屋山の頭光嶽や、南方から石龕寺に至る町石道は久下氏の栗作郷から続き、身を呈し尊氏の影武者となって倒れた伝説の十三塚(古代祭祀遺跡!?)や義詮の戦勝祈願に纏わる金屋不動尊もある。観光PRの「もみじまつり」の解説からは殆ど外されているようですが、古刹の歴史や数々の伝承・僅かに遺る其の遺構や伝承地も大切に残し伝えていきたいものです。石龕寺は用明天皇の587年(用明2)聖徳太子を開基とする古刹で、太子が深く帰依した自彫の毘沙門天を本尊とし正平6年(観応2年 1351)京を追われた足利尊氏親子が栗作郷の久下氏を頼って石龕寺に逃れます。大河ドラマ「太平記」を機に”村おこし”記念行事で始められた祭り?だけに、歴史を正確に伝えていくことも大切かも…もみじまつりの武者行列は仁王門【金剛力士立像は仁治3年(1242)仏師・肥後法橋定慶の作で、国の重要文化財に指定されています】迄で下馬・此処より毘沙門堂まで徒歩で進みます。此処から毘沙門堂まで・伝統行事なら神聖で!?最重要なフィナーレ部だが、此でも武者として参列の自治会役員に・報道関係者?が付き纏い取材する態度はいかがなものか…?個人インタビューなら参拝後の解散時に、行事関連詳細なら事前に自治会スタッフの方が詳しい筈?。またスタート地点や途中・休憩中に取材する充分な時間は有る筈。尊氏も此の毘沙門天に武運を祈願したことでしょう。武者行列の参拝後・先導してきた山伏(岩屋地区石龕寺檀家・奉賛会)により参拝者の健康を祈願する護摩法要が行われますが、事を理解しないカメラマンが綱を張った結界内に入り込む。カメラアングルやシャッターチャンスは常識の節度内で…と思うのですが、思いやる気持ち・優しさ・自分がこの場にいる感謝の気持ちさえ忘れ、自分さえ良ければ…北朝鮮・日本サッカー試合で北朝鮮アウエーでの観戦模様をニュースで見たばかりなので、日本アウエーでも日本人が対戦国に対して同じ態度をとるような「心無し」の国民にはなって欲しくないものです。
毘沙門堂の石垣と紅葉天正7年(1579)織田信長の”丹波攻め”では明智光秀の援軍として播磨方面より羽柴長秀・細川藤孝軍が、久下氏の玉巻城・西波多野氏の霧山城、此処:石龕寺城(岩屋城)に拠る広沢氏を攻め、麓の石龕寺は仁王門を焼け残しただけで、兵火により一山尽くが焼失した。
石龕寺モミジの紹介画像に見かけないようだが?、此処の”もみじの観賞”は仰ぎ見るだけでなく、毘沙門堂から見下ろして見る紅葉の美しさを特筆しておきます。
仁王門を潜り始まる紅葉のトンネル 参考までに…過去の石龕寺もみじまつり(ブログ)… ↓
2010年→ https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/201012article_5.html
2009年→ https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/200911article_10.html
2007年→ https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/200711article_18.html
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