織田神社 丹波市
”丹波の厄神さん”で知られる八幡神社南麓に柏原町観光案内所が建ち、ケヤキの巨木が奥村川を跨いで天然自然の橋となっている木の根橋は太鼓櫓とともに丹波市柏原町のシンボル。ボランテイア・ガイドが詰める観光案内所・木の根橋とは車道を挟んで向かいには織田神社がある。
織田神社:東奥から遷され秋葉社等二社権現の祠をそのまま収めてある!!
左に信包像・右に信勝像・祠内には信勝の木造<江戸時代中期>が安置される
今年(2011年)春に鳥居が新しくなり神社が現在地に遷された往時の白壁塀が再建されています。祭神に慶安3年(1650)28歳で亡くなった柏原藩前期織田家三代目織田信勝を祀る事で知られますが、実のところ・前期織田家初代の信包(織田信長の弟)・信則・信勝の三代が祀られています。柏原藩は信勝に継嗣無く、3代で廃絶してしまいます。信勝の母は除封されたことを嘆き・信勝の居館跡に霊廟を祀った織田田神社・織田権現は町衆からも信仰をうけていたが、藩政時代に「織田」の名称は疑問で?、霊廟は権現社として二代目父:信則と子の信勝を(秋葉社・愛宕社)として祀られていたのでしょう。初代織田信包が柏原町に来住した形跡は古文書等に確認されていないようですが、織田華一族で:お市の方の子お江の夫で信包の筆頭家老佐治与九郎が代官として柏原日赤病院近くに屋敷を構えていた様です。
改修以前の織田神社
廟所は寛文9年(1668)東奥に遷されていたが、現在地の古市場には後期柏原藩織田家再興後の文政年間(1818-30)東奥大谷から移され、織田家の庇護をうけ・町衆からも篤く信仰されてきました。いつ頃から織田神社の名称となったかは未確認ですが、廟所の在った所が不明であった前期柏原藩織田家の館跡が近年発見された絵図によって明らかにされました。奥村川を堀として現:織田神社からは150m程?の位置。絵図は町歴史民俗資料館に寄託されているので後日確認出来るかも・・。<参考>廃藩後45年のあいだ天領地だったが元禄8年・大和宇陀より織田信休(のぶやす)が2万石で柏原藩に減封され、現在遺る柏原藩織田家陣屋を構えて後期柏原藩織田家が10代続いて明治維新を迎えます。

織田神社:東奥から遷され秋葉社等二社権現の祠をそのまま収めてある!!
左に信包像・右に信勝像・祠内には信勝の木造<江戸時代中期>が安置される
今年(2011年)春に鳥居が新しくなり神社が現在地に遷された往時の白壁塀が再建されています。祭神に慶安3年(1650)28歳で亡くなった柏原藩前期織田家三代目織田信勝を祀る事で知られますが、実のところ・前期織田家初代の信包(織田信長の弟)・信則・信勝の三代が祀られています。柏原藩は信勝に継嗣無く、3代で廃絶してしまいます。信勝の母は除封されたことを嘆き・信勝の居館跡に霊廟を祀った織田田神社・織田権現は町衆からも信仰をうけていたが、藩政時代に「織田」の名称は疑問で?、霊廟は権現社として二代目父:信則と子の信勝を(秋葉社・愛宕社)として祀られていたのでしょう。初代織田信包が柏原町に来住した形跡は古文書等に確認されていないようですが、織田華一族で:お市の方の子お江の夫で信包の筆頭家老佐治与九郎が代官として柏原日赤病院近くに屋敷を構えていた様です。
改修以前の織田神社
廟所は寛文9年(1668)東奥に遷されていたが、現在地の古市場には後期柏原藩織田家再興後の文政年間(1818-30)東奥大谷から移され、織田家の庇護をうけ・町衆からも篤く信仰されてきました。いつ頃から織田神社の名称となったかは未確認ですが、廟所の在った所が不明であった前期柏原藩織田家の館跡が近年発見された絵図によって明らかにされました。奥村川を堀として現:織田神社からは150m程?の位置。絵図は町歴史民俗資料館に寄託されているので後日確認出来るかも・・。<参考>廃藩後45年のあいだ天領地だったが元禄8年・大和宇陀より織田信休(のぶやす)が2万石で柏原藩に減封され、現在遺る柏原藩織田家陣屋を構えて後期柏原藩織田家が10代続いて明治維新を迎えます。
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