宵田城 豊岡市日高町
円山川沿いのR312号線は宿南の先で城山トンネルを岩中交差点へ抜けるが、城山トンネルの真上に位置する宵田城はバイパス道は勿論・どの車道を通っていても山上に送電線鉄塔が建ち・側に主郭部の曲輪と切岸を立てる山容は城山と判る。
宵田城主郭より神鍋山・三川山方面の残雪を望む豊岡市へ・玄武洞や城崎へと、此のトンネルを通る度に一度は訪れたいと思いながら今日になってしまった。R312号側から直接取付ければよいのだが、トンネルを抜けるバイパスに入らず宵田の手前でJR山陰線踏切りを渡った岩中地区内を南へ戻り気味に200m程先の鹿島神社を目指す。
ニノ丸から宵田城主郭の切岸と北面の帯曲輪(右)此処が道標完備・山上主郭まで遊歩道整備の登山口。権力強化を画策する3代将軍足利義満にとって、勢力が強過ぎて統制が困難な有力大名の弱体化を図り、全国六分の一殿と呼ばれた山名氏等に対し、一族が分裂するよう挑発。詳細は明徳の乱を検索しWikipedia等で確認してください。
主郭西北の石垣虎口部宵田城は垣屋氏分流の居城ですが、但馬山名の四天王の筆頭:明徳の乱には家臣の多くが氏清方に属するが垣屋賴忠(弾正忠)は山名時熙に従います:此の時熙の子が山名持豊(宗全)。…垣屋賴忠は討死するが垣屋家は明徳の乱を契機として山名家の筆頭家老として最盛期を迎え、大躍進と隆国・国重へと続く基盤を堅めた。
北郭の二段(二重)土塁虎口部応永年間(1394-1427)山名氏重臣で但馬守護代垣屋播磨守隆国(越前守熙忠!?)が楽々前 (ささのくま)城を築き、 嫡男越前守満成(熙続)が楽々前城を継ぎ三男駿河守豊茂(国時)を竹野の轟城に永享2年 (1430)宵田城を築いて次男越中守国重(熙知)を配して其の支城としたと伝えられます。
天正3年但馬では織田方・毛利方の代理戦争ともいわれる野田合戦が起り垣屋氏も分裂し惣領家は反毛利・分家は但馬を毛利方に統一し、宵田城は山陰の拠点ともなった。天正8年羽柴秀吉の第二次但馬侵攻に敗れ宵田城主は楽々前(ささのくま)城に敗走し討死したと云われます。

宵田城主郭より神鍋山・三川山方面の残雪を望む豊岡市へ・玄武洞や城崎へと、此のトンネルを通る度に一度は訪れたいと思いながら今日になってしまった。R312号側から直接取付ければよいのだが、トンネルを抜けるバイパスに入らず宵田の手前でJR山陰線踏切りを渡った岩中地区内を南へ戻り気味に200m程先の鹿島神社を目指す。
ニノ丸から宵田城主郭の切岸と北面の帯曲輪(右)此処が道標完備・山上主郭まで遊歩道整備の登山口。権力強化を画策する3代将軍足利義満にとって、勢力が強過ぎて統制が困難な有力大名の弱体化を図り、全国六分の一殿と呼ばれた山名氏等に対し、一族が分裂するよう挑発。詳細は明徳の乱を検索しWikipedia等で確認してください。
主郭西北の石垣虎口部宵田城は垣屋氏分流の居城ですが、但馬山名の四天王の筆頭:明徳の乱には家臣の多くが氏清方に属するが垣屋賴忠(弾正忠)は山名時熙に従います:此の時熙の子が山名持豊(宗全)。…垣屋賴忠は討死するが垣屋家は明徳の乱を契機として山名家の筆頭家老として最盛期を迎え、大躍進と隆国・国重へと続く基盤を堅めた。
北郭の二段(二重)土塁虎口部応永年間(1394-1427)山名氏重臣で但馬守護代垣屋播磨守隆国(越前守熙忠!?)が楽々前 (ささのくま)城を築き、 嫡男越前守満成(熙続)が楽々前城を継ぎ三男駿河守豊茂(国時)を竹野の轟城に永享2年 (1430)宵田城を築いて次男越中守国重(熙知)を配して其の支城としたと伝えられます。
天正3年但馬では織田方・毛利方の代理戦争ともいわれる野田合戦が起り垣屋氏も分裂し惣領家は反毛利・分家は但馬を毛利方に統一し、宵田城は山陰の拠点ともなった。天正8年羽柴秀吉の第二次但馬侵攻に敗れ宵田城主は楽々前(ささのくま)城に敗走し討死したと云われます。
この記事へのコメント