丹波八木城Ⅰ 南丹市
関西圏の八木城は但馬に山名氏の八木城があるが丹波の三大山城として・また三強の居城として丹波市の黒井城(荻野直正)・篠山市の八上城(波多野秀治)・南丹市にある八木城(内藤有勝)があり、ともに一度は信長の天下布武「丹波国攻略」の明智光秀軍により落城します。内藤氏は永享3年(1431)以来管領:細川政権下で
代々丹波守護代を継承している。(注:文明14年罷免され物部城の上原氏に替わってはいるが室町幕府滅亡まで丹波守護代を務める)。八木城最後の城主となったのが8代目:内藤忠俊でキリシタン大名として知られる内藤如安(洗礼名:ジョアン)で、父備前守宗勝は松永久秀の実弟。八木城の城史も不詳・不明点は多いが、
郭の南面大堀切側(大土塁下部に見る石垣)永禄8年(1565)敗死する:黒井城への内通で山家(綾部市)の寺で宿陣中に夜襲されたとも・和久郷の合戦(福知山市)に敗死したとも…?。内藤如安は天正元年織田信長に追放された将軍足利義昭に仕え信長との戦いにも自ら十字架とイエズス会のIHSの文字を施した兜を頂き二千人の将兵を率いて二条城へ出陣したと云う。
八木城本丸西面土塁下部の石垣天正3年(1575)明智光秀に攻め落とされ、落城後は足利義昭と共に鞆の浦に隠棲したとも…天正13年(1585)頃にはキリシタン大名:小西行長の客将となり秀吉に従い文禄の役(1592)には朝鮮出兵に加わり、小西行長の命により講話使節として朝鮮を経て明国北京に赴き交渉に当たり、文禄の役を終結させた。
八木城本丸東曲輪先端部の露岩を取込む切岸と下部に空堀土塁キリシタン弾圧が激さを増す慶長19年(1614)キリシタン禁教令によって改宗を迫られるが信仰を貫く高山右近と共にマニラ(フィリピン)に追放され右近は翌年死去・如安はマニラ市サン・ミケルにて益々信仰への道を究める傍ら、中国の医学書や宗教書を翻訳・日本人町の指導者としても活躍し寛永3年(1626)マニラの地に73歳?の生涯を終えた。(現地 新御殿門案内説明板/内藤ジョアン顕彰碑を参照)
北ノ丸への尾根(内藤五郎郭までの曲輪段)に見る石積跡八木城の主郭周辺や北尾根・西尾根へと拡がる城郭遺構には石積みを覗かせている。堀切にも残る石積跡や、切岸を高くした幅広の土塁等・長塀で囲った城門(櫓)でも建っていた様子等、光秀が亀山城(亀岡市)に移った後も亀山城の支城として存続し改修が成されたものか…?
八木城西尾根(内藤法雲郭)↓

代々丹波守護代を継承している。(注:文明14年罷免され物部城の上原氏に替わってはいるが室町幕府滅亡まで丹波守護代を務める)。八木城最後の城主となったのが8代目:内藤忠俊でキリシタン大名として知られる内藤如安(洗礼名:ジョアン)で、父備前守宗勝は松永久秀の実弟。八木城の城史も不詳・不明点は多いが、
郭の南面大堀切側(大土塁下部に見る石垣)永禄8年(1565)敗死する:黒井城への内通で山家(綾部市)の寺で宿陣中に夜襲されたとも・和久郷の合戦(福知山市)に敗死したとも…?。内藤如安は天正元年織田信長に追放された将軍足利義昭に仕え信長との戦いにも自ら十字架とイエズス会のIHSの文字を施した兜を頂き二千人の将兵を率いて二条城へ出陣したと云う。
八木城本丸西面土塁下部の石垣天正3年(1575)明智光秀に攻め落とされ、落城後は足利義昭と共に鞆の浦に隠棲したとも…天正13年(1585)頃にはキリシタン大名:小西行長の客将となり秀吉に従い文禄の役(1592)には朝鮮出兵に加わり、小西行長の命により講話使節として朝鮮を経て明国北京に赴き交渉に当たり、文禄の役を終結させた。
八木城本丸東曲輪先端部の露岩を取込む切岸と下部に空堀土塁キリシタン弾圧が激さを増す慶長19年(1614)キリシタン禁教令によって改宗を迫られるが信仰を貫く高山右近と共にマニラ(フィリピン)に追放され右近は翌年死去・如安はマニラ市サン・ミケルにて益々信仰への道を究める傍ら、中国の医学書や宗教書を翻訳・日本人町の指導者としても活躍し寛永3年(1626)マニラの地に73歳?の生涯を終えた。(現地 新御殿門案内説明板/内藤ジョアン顕彰碑を参照)
北ノ丸への尾根(内藤五郎郭までの曲輪段)に見る石積跡八木城の主郭周辺や北尾根・西尾根へと拡がる城郭遺構には石積みを覗かせている。堀切にも残る石積跡や、切岸を高くした幅広の土塁等・長塀で囲った城門(櫓)でも建っていた様子等、光秀が亀山城(亀岡市)に移った後も亀山城の支城として存続し改修が成されたものか…?
八木城西尾根(内藤法雲郭)↓
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