国分寺城 豊岡市

国分寺城は山陰本線JR江原駅の北背後に在って、南山麓には奈良時代:天平13年(741)聖武天皇が国家安泰を祈願し 諸国に建立させた但馬国分寺跡がある。R312号のバイパス道の城山トンネル上部には宵田城がトンネルを北に抜けるとR482号線が交差する岩中交差点。但馬国府が置かれた祢布には祢布城があり、直ぐ前方に見える国分寺トンネル上部には国分寺城がある。
        北郭(右手は土塁櫓台?)から空堀を挟んで主郭の切岸
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但馬国分寺跡〜;護国山但馬国分寺〜;国分尼寺跡?(売布神社)を経て八坂神社へ抜ける「天平の径」が国分寺城の主郭・北郭と西郭を分ける大堀道を通るハイキング(遊歩道)となっている。此の西郭部から長く延びる土橋を更に西へと尾根を辿れば更に幾層倍も広い城域をもつ国分寺古城が在る事が訪城後になって判った…。
        西郭部の曲輪間を繋ぐ空堀・土橋虎口?
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南北朝期:但馬の領主達も南朝方か・北朝方に付くか揺れ:其の時々に南朝に付き北朝に代わり、また南朝にと氏族の生き残りに必死だったのでしょう…築城年代は定かでなく延徳3年(1491)頃から~天正8年(1580)羽柴秀吉の第二次但馬攻略に際し、水生城を攻めた羽柴秀長軍により敗れるまで)のものとされています。
         主郭と北郭を分ける幅広い空堀
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延文元年 (正平11 1356)にも伊達真信<北朝方>が大坪城(国分寺城)を攻めた記録が」あり、大坪城は国分寺古城を示すものかも…?知れませんが、国分寺城最後の城主大坪又四郎は水生城の合戦に参軍して破れます。
      主郭南側の平入上り土塁虎口?(整備された霊場巡拝道か)と切岸
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現状の国分寺城は中規模城郭ながら、主郭周囲を帯曲輪が捲き、大規模な横堀・空堀・竪堀が多用されている。土塁や北郭には広い櫓台土塁が「天平の径」の大空堀と西郭側を足元に見下ろし監視する。高く急斜な曲輪の切岸と相まって主要郭部の平入り虎口部?を除けば中世末期の 縄張りは技巧的で見応えがある。


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