下新庄城 丹波
丹波市役所・成松商店街の北方を西へ直進し高山寺近く安全山南麓の「常楽」交差点に出る。常楽交差点の西北・安全山へ向かう林道東側の極低丘陵南端の半独立峰(比高15m程)には遺跡分布図にあるが丸山城(城砦か不明?)や其の西約400m程にも富士型の姿を見せる小さな峰がみえ、削平された山頂部には祠(大歳神社)が
祀られているが、段曲輪・帯曲輪・竪堀?・空堀?状の遺構があるが県遺跡分布調査図には丘陵東斜面の南北に下新庄古墳群(13基程が点在するだけ)で、城址の記載はなく下新庄城(内山砦)(氷上町下新庄)と仮称する。城址の南麓を東西に走る街道筋の東は旧佐治川(加古川)沿いに佐治街道・但馬街道が通じるが、
西へは達身寺・カヤマチ山へ、三原の内尾神社からは篠ヶ峰への山稜に向かうだけ。境界尾根を越えれば東播磨や但馬へ抜けられるが、間道が通じていたかは不明?…だが南北朝期や其れ以前の古城として西に本庄氏の南郷城・南側には葛野(かどの)川を隔て丹波守護代:荻野朝忠や仁木賴章までもが一時期南朝方として足利高氏に抗して立て篭った高山寺城がある。
高山寺城北山麓:葛野川沿いに天正7年(1579)明智軍の猛攻に落城したという勝田勘八郎の成松城もある。下新庄城は此の成松城の監視砦だったか?、祠の建つ山頂を主曲輪として南から東側を北側へと幅狭い棚状だが帯曲輪状が、南側参道から主曲輪に入る手前には竪掘状が南東へ落ちる。荒れた北尾根続き東斜面にも竪堀(登城の空堀道状?)があり、帯曲輪状端が繋がる部分が土塁虎口状に開く。
主曲輪と参道の南面は祠造成により遺構部の改変が伴っているのかも。更に西面・一段下の小曲輪からは露天堀の鉱山跡か!…足元がスパッと切れ落ちた高さ約10m程の岩場で囲まれている。幅約30㎡以上のクレータ状窪地が現れる。尾根続きの比較的緩斜面の北尾根上に堀切はなく手薄だが曲輪段や竪堀が鉱石搬出の作業遺構とも思えない…。南郷城や成松城に関わった砦だったか…?
祀られているが、段曲輪・帯曲輪・竪堀?・空堀?状の遺構があるが県遺跡分布調査図には丘陵東斜面の南北に下新庄古墳群(13基程が点在するだけ)で、城址の記載はなく下新庄城(内山砦)(氷上町下新庄)と仮称する。城址の南麓を東西に走る街道筋の東は旧佐治川(加古川)沿いに佐治街道・但馬街道が通じるが、
西へは達身寺・カヤマチ山へ、三原の内尾神社からは篠ヶ峰への山稜に向かうだけ。境界尾根を越えれば東播磨や但馬へ抜けられるが、間道が通じていたかは不明?…だが南北朝期や其れ以前の古城として西に本庄氏の南郷城・南側には葛野(かどの)川を隔て丹波守護代:荻野朝忠や仁木賴章までもが一時期南朝方として足利高氏に抗して立て篭った高山寺城がある。
高山寺城北山麓:葛野川沿いに天正7年(1579)明智軍の猛攻に落城したという勝田勘八郎の成松城もある。下新庄城は此の成松城の監視砦だったか?、祠の建つ山頂を主曲輪として南から東側を北側へと幅狭い棚状だが帯曲輪状が、南側参道から主曲輪に入る手前には竪掘状が南東へ落ちる。荒れた北尾根続き東斜面にも竪堀(登城の空堀道状?)があり、帯曲輪状端が繋がる部分が土塁虎口状に開く。
主曲輪と参道の南面は祠造成により遺構部の改変が伴っているのかも。更に西面・一段下の小曲輪からは露天堀の鉱山跡か!…足元がスパッと切れ落ちた高さ約10m程の岩場で囲まれている。幅約30㎡以上のクレータ状窪地が現れる。尾根続きの比較的緩斜面の北尾根上に堀切はなく手薄だが曲輪段や竪堀が鉱石搬出の作業遺構とも思えない…。南郷城や成松城に関わった砦だったか…?
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