網掛城 篠山市
JR篠山口駅の北/篠山ICを出て306号を西へ進み舞鶴若狭自動車道高架を過ぎると北方:中央図書館の北に西吹城のある独立極小低丘陵が見える。左手前方に「丹波の森:四季の森会館」施設が並ぶ東にも比高60m足らずの低丘陵が見える。
此の丘陵上が網掛城(小屋ヶ岳)・丘陵東麓に長者屋敷があり(江戸期の丹波地域の角屋を持つ移設された茅葺民家)はイタリアン・レストランになっていたが閉店。網掛城への登口は4ヶ所程あるが長者屋敷から四季の森会館へ通じる車道の小峠から、長者屋敷を左下に見て山道を辿り尾根筋鞍部に出るのが一番樂なコース。
主曲輪の西:帯曲輪下段に、四季の森会館側斜面に向かい3段小曲輪が並ぶ主郭群は右手(南上方ピーク)で、鞍部手前から短い縦堀を直接・主曲輪下段の帯曲輪に行き着くが、鞍部から東へ延びる尾根上にも二ヶ所の平坦地形があり、更に東先端部の平坦地からは遮るものなく吹城(東吹城)が望まれる。東斜面は比較的緩斜面だが、東南は遠く八上城まで遮るものも無く展望が効く。東吹城の監視・八上城への狼煙等の通信には有効に利用出来そうです。
北西斜面:帯曲輪の切岸と最上段の主曲輪天正年間:明智光秀の「丹波侵攻」が始まり、天正6年:波多野秀治の八上城包囲の長期戦になると周辺の諸城を一つ一つ攻め落していきます。城主:井関三之丞が拠る吹城(東吹城・瓢箪丸)を攻める為の向城として明智光秀が築いたのが網掛城と云われ、篠山盆地の平野部西端に位置し丹波・攝津・播磨方面から八上城への西入口を警備・監視出来・八上城を望む独立低丘陵にあり、東吹城の井関氏か西吹城の難波氏の出城ではなかったかと思われる。
東斜面:長者屋敷?上方に2段程の曲輪?波多野氏配下の城砦の一つが明智軍により陣城として改修されたものと考えられ、網掛城同様に山頂から同心円状に数段の曲輪が捲く縄張りは、JR篠山口駅とR176(丹波の森街道)を挟んだ西丘陵上に杉本氏の禄庄城が在り、同心円状の曲輪と切岸・竪掘りの遺構は網掛城以上に顕著。京街道・丹波・摂津街道・東播磨への北間道(旧山陰道と西脇市へ、市原・今田から加東市へも抜けられる)の要衝に位置するが、明智丹波攻めの向城に転用された記録は知らない…?
此の丘陵上が網掛城(小屋ヶ岳)・丘陵東麓に長者屋敷があり(江戸期の丹波地域の角屋を持つ移設された茅葺民家)はイタリアン・レストランになっていたが閉店。網掛城への登口は4ヶ所程あるが長者屋敷から四季の森会館へ通じる車道の小峠から、長者屋敷を左下に見て山道を辿り尾根筋鞍部に出るのが一番樂なコース。
主曲輪の西:帯曲輪下段に、四季の森会館側斜面に向かい3段小曲輪が並ぶ主郭群は右手(南上方ピーク)で、鞍部手前から短い縦堀を直接・主曲輪下段の帯曲輪に行き着くが、鞍部から東へ延びる尾根上にも二ヶ所の平坦地形があり、更に東先端部の平坦地からは遮るものなく吹城(東吹城)が望まれる。東斜面は比較的緩斜面だが、東南は遠く八上城まで遮るものも無く展望が効く。東吹城の監視・八上城への狼煙等の通信には有効に利用出来そうです。
北西斜面:帯曲輪の切岸と最上段の主曲輪天正年間:明智光秀の「丹波侵攻」が始まり、天正6年:波多野秀治の八上城包囲の長期戦になると周辺の諸城を一つ一つ攻め落していきます。城主:井関三之丞が拠る吹城(東吹城・瓢箪丸)を攻める為の向城として明智光秀が築いたのが網掛城と云われ、篠山盆地の平野部西端に位置し丹波・攝津・播磨方面から八上城への西入口を警備・監視出来・八上城を望む独立低丘陵にあり、東吹城の井関氏か西吹城の難波氏の出城ではなかったかと思われる。
東斜面:長者屋敷?上方に2段程の曲輪?波多野氏配下の城砦の一つが明智軍により陣城として改修されたものと考えられ、網掛城同様に山頂から同心円状に数段の曲輪が捲く縄張りは、JR篠山口駅とR176(丹波の森街道)を挟んだ西丘陵上に杉本氏の禄庄城が在り、同心円状の曲輪と切岸・竪掘りの遺構は網掛城以上に顕著。京街道・丹波・摂津街道・東播磨への北間道(旧山陰道と西脇市へ、市原・今田から加東市へも抜けられる)の要衝に位置するが、明智丹波攻めの向城に転用された記録は知らない…?
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