後青寺城 Ⅱ 福知山市

大内城とは低丘陵続きで北近畿舞鶴若狭自動車道の六人部PA付近・高架下部にあり福知山市遺跡情報に後正寺古墓(発掘調査により城館の可能性が高いと推察される)は先にブログで後青寺城Ⅰとして紹介した。
 後正寺城:主郭虎口の大土塁と土塁沿いの通路
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遺跡分布位置には後正寺古墓とされている居館跡?)は小谷を挟んだ尾根続きの斜面上:低丘陵(比高20m)部一帯は緩斜面で風化等による崩壊か?・低い段差の曲輪群が拡がる。実測していないが東端は北近畿自動車道で寸断されている尾根筋の南東端が主郭らしく堀株の先祖碑が立つ。
 大土塁虎口の空堀と土橋<主郭の土塁曲輪東側は自動車道敷地により切断!!>
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此処から緩斜面下部:西端に祀られる薬師堂迄の東西<自動車道沿い>幅約80m・南北に走る自動車道沿いに約120m程が城域。後青寺城の主郭は薬師堂の東:堀株の先祖碑が祀られる裏側:大土塁が開く虎口へ土橋(上土塁だが片側が空堀)を渡ると大土塁内・円状窪地?の虎口受曲輪に入る。
後正寺城域西端:低段差の曲輪群内に薬師堂が祀られる
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大土塁は高さ約3m程で北に延びる尾根筋沿い<西面の広い曲輪域を繋ぐ>通路となっているが埋もれた空堀?か、山林作業用の山道か?。土塁虎口の東が自動車道と其の敷地内で消滅・切断されているので旧状は不明ですが、承久の乱(1221)に平(池大納言)賴盛の所領は幕府に没収され後:後高倉院に返進されて以降の大内城の城史は不明ですが、旧天田郡の六人部一帯を支配していた豪族に堀氏が居り、室町時代中期頃:文安年間(1444-497)守護:細川勝元や政元の奉行<天田郡郡司>として堀孫次郎が仕えており、後正(青)寺城の二ヶ所の曲輪遺構には孫次郎が拠ったものとと推察されます。


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