譲葉山城 丹波市柏原町
織田家柏原藩陣屋跡・地方裁判所・税務署・歴史民俗資料館・藩校の跡地には法務局が在る。小さな町の歴史を巡るスタートはボランテイアガイドが待機する!!観光案内所のある柏原八幡神社参道鳥居前・木の根橋から車道を挟んで織田神社(前期織田家三代を祀る)がある。柏原八幡神社前の「木の根橋」から柏原高校前を奥谷川に沿って進むと後期織田家廟所がある。
奥谷川沿いに譲葉山山頂へは柏原高校ワンゲル部や東奥自治会により整備された登山道があり・集合住宅側から始まる林道入口ゲートを開閉して進む左手の低丘陵上に奥村城(東奥城)が、谷川沿い右手丘陵斜面には大安寺(東奥)古墳群がある。谷川沿い正面の宅地(空家か?)側から鉄板の橋を渡るとキリスト教徒墓から登山道が始まる。歩き始めてしばらくで右手に・続いて左手前方にも…幾段もの曲輪が現れ、深く幅広い谷向いにも曲輪段をみる大規模な寺院跡地は、平安時代後期・柏原八幡神社の神宮寺として創建されたという大安寺跡。其の中核曲輪と思える高い切岸上の平坦段に観音堂が建つ。藤原時代(鎌倉時代)の作風を示す木彫漆箔造りの十一面観音菩薩像が安置されている。北曲輪群の中に大安寺6号墳がある。此れより延々…譲葉山山頂までは国道筋から比高470m以上の登山道。
数少ない展望スポット[謝] 高八山と藤ノ目は逆です!! 領内が監視出来る位置でもなく之ほどの山上に山城が在る事は考えにくいが、丹波攻略の明智軍の金山城・草山砦の関連を比較してみると、柏原八幡山城と譲葉山に陣城・付城があれば、金山城からは尾根続きにあり、三尾山城を監視しながら黒井城との中間地点・国領へ通じる短絡ルートにある。尾根筋は高尾城(長谷城)・岩戸神社城館へ近いので、黒井城からの援護も受けられず悲運の落城を伝える高尾城は、此の尾根上からも攻められたものか?。
改めて譲葉山城を再調査・参考資料として縄張略図をT氏の送った。八上城攻めの向城群に競べ、黒井城攻めの付城は天正3年に始まり12‐3箇所築かれたと云うが天正7年落城頃迄には更に周辺の支城砦群を改修・また新築城し包囲網を強固にしていったと思える、仮称とした諸城のいくつかが含まれるのでは!?。此処に観る譲葉山城の方形・低土塁だが四方を囲む曲輪は折れを意識した縄張り:織豊系縄張り。
譲葉山城(東郭):土塁虎口 譲葉権現堂の建つ東郭から西郭(折れを伴う低土塁沿いの西郭を西端曲輪に進み・此の北面から一気に斜面を降る登山道を向山連山へ縦走路が延びるが登山者や城サイトのレポートに城砦を意識した記事は未だない。…譲葉山城の東郭・西郭や譲葉山西城及び向山連山の四ノ山山上に在る四ノ山砦(天ヶ嶽砦)も仮称で、県の遺跡分布地図にはノーマーク、丹波史はじめ地元の郷土誌史等資料にも登場しない埋もれた古城を、丹波市内だけでも仮称は現在23城塞を数えます。教育委員会には都度の略図等をつけて報告しているが、正式報告は実測図(正確な縄張図)等が描けず書式が整わないこと・正式な報告形式を知らないが、此れ等の数件は「丹波史懇話会」会員・中世城郭研究者T氏等の研究報告を受けて認められるのかも…!?。
譲葉山城<東郭>:土塁囲みの方形陣城同会の柏原町内会員からも聞いた”城山”と呼ばれている峰に在る譲葉山西城も町史誌や旧郡以降の遺跡調査に記載のない城。秘密裏に進められる向城築城・まして侵入者の敵の城は領地内民衆にとっては逃れるに必死の恐怖の存在だけに城の存在を示す名があるだけでも…!!。明智方に降りた丹波(京都丹波含め)の将兵によるものか?。小規模城郭だが二本の堀切が曲輪を分けている。ただ明智方の改修と思える竪土塁もある。更に高所に位置する譲葉山城への登路口を守備する前衛の城砦として築いたものか?…しかし麓の八幡山城と譲葉山城の挟まれて監視される位置でもある。八幡山城から高八山を経て反射板の有る清水山へ駆け上がる稜線を望みながら、譲葉山山頂を目指し歩き出す。譲葉山城(仮称)Ⅱに続く。

奥谷川沿いに譲葉山山頂へは柏原高校ワンゲル部や東奥自治会により整備された登山道があり・集合住宅側から始まる林道入口ゲートを開閉して進む左手の低丘陵上に奥村城(東奥城)が、谷川沿い右手丘陵斜面には大安寺(東奥)古墳群がある。谷川沿い正面の宅地(空家か?)側から鉄板の橋を渡るとキリスト教徒墓から登山道が始まる。歩き始めてしばらくで右手に・続いて左手前方にも…幾段もの曲輪が現れ、深く幅広い谷向いにも曲輪段をみる大規模な寺院跡地は、平安時代後期・柏原八幡神社の神宮寺として創建されたという大安寺跡。其の中核曲輪と思える高い切岸上の平坦段に観音堂が建つ。藤原時代(鎌倉時代)の作風を示す木彫漆箔造りの十一面観音菩薩像が安置されている。北曲輪群の中に大安寺6号墳がある。此れより延々…譲葉山山頂までは国道筋から比高470m以上の登山道。
数少ない展望スポット[謝] 高八山と藤ノ目は逆です!! 領内が監視出来る位置でもなく之ほどの山上に山城が在る事は考えにくいが、丹波攻略の明智軍の金山城・草山砦の関連を比較してみると、柏原八幡山城と譲葉山に陣城・付城があれば、金山城からは尾根続きにあり、三尾山城を監視しながら黒井城との中間地点・国領へ通じる短絡ルートにある。尾根筋は高尾城(長谷城)・岩戸神社城館へ近いので、黒井城からの援護も受けられず悲運の落城を伝える高尾城は、此の尾根上からも攻められたものか?。
改めて譲葉山城を再調査・参考資料として縄張略図をT氏の送った。八上城攻めの向城群に競べ、黒井城攻めの付城は天正3年に始まり12‐3箇所築かれたと云うが天正7年落城頃迄には更に周辺の支城砦群を改修・また新築城し包囲網を強固にしていったと思える、仮称とした諸城のいくつかが含まれるのでは!?。此処に観る譲葉山城の方形・低土塁だが四方を囲む曲輪は折れを意識した縄張り:織豊系縄張り。
譲葉山城(東郭):土塁虎口 譲葉権現堂の建つ東郭から西郭(折れを伴う低土塁沿いの西郭を西端曲輪に進み・此の北面から一気に斜面を降る登山道を向山連山へ縦走路が延びるが登山者や城サイトのレポートに城砦を意識した記事は未だない。…譲葉山城の東郭・西郭や譲葉山西城及び向山連山の四ノ山山上に在る四ノ山砦(天ヶ嶽砦)も仮称で、県の遺跡分布地図にはノーマーク、丹波史はじめ地元の郷土誌史等資料にも登場しない埋もれた古城を、丹波市内だけでも仮称は現在23城塞を数えます。教育委員会には都度の略図等をつけて報告しているが、正式報告は実測図(正確な縄張図)等が描けず書式が整わないこと・正式な報告形式を知らないが、此れ等の数件は「丹波史懇話会」会員・中世城郭研究者T氏等の研究報告を受けて認められるのかも…!?。
譲葉山城<東郭>:土塁囲みの方形陣城同会の柏原町内会員からも聞いた”城山”と呼ばれている峰に在る譲葉山西城も町史誌や旧郡以降の遺跡調査に記載のない城。秘密裏に進められる向城築城・まして侵入者の敵の城は領地内民衆にとっては逃れるに必死の恐怖の存在だけに城の存在を示す名があるだけでも…!!。明智方に降りた丹波(京都丹波含め)の将兵によるものか?。小規模城郭だが二本の堀切が曲輪を分けている。ただ明智方の改修と思える竪土塁もある。更に高所に位置する譲葉山城への登路口を守備する前衛の城砦として築いたものか?…しかし麓の八幡山城と譲葉山城の挟まれて監視される位置でもある。八幡山城から高八山を経て反射板の有る清水山へ駆け上がる稜線を望みながら、譲葉山山頂を目指し歩き出す。譲葉山城(仮称)Ⅱに続く。
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