仁田城 福知山市

福知山市六人部(むとべ)の大内と宮地区の間を南北に延びる低丘陵上を北近畿(舞鶴若狭)自動車道が走るが、其の丘陵部最北端の麓・丹波市市島町から福知山市六人部の土師川を渡るとR9号(山陰街道)に、県道708号線が合流する6-700m程手前:頭上を自動車専用道が走り抜ける高架橋の側近くに一宮神社が鎮まる。
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神社背後の丘陵部に城ノ尾城館があり其の丘陵上に日本道路公団六人部PAの関連施設が建つ。其処に通じる一宮神社の東側から三俣方面に抜ける地区道から幅狭い急坂車道が登ってくるが此処に通じる専用道路か?。峠の施設前から地道となって降り始める位置の北側にL字状の空堀(幅3‐5m)と三方向に土塁(堀底からは4‐6mと垂直に近い切岸を落とす )を廻す単郭の仁田城が在る。
  仁田城:東面(六人部PA側)の低土塁曲輪切岸
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城ノ尾城館との尾根続き、地道は大内側の野間・仁田へ降り始める林道右手(西)側斜面が急な切岸と南東コーナー部が空堀状…!?の城郭遺構!?。城ノ尾城館との間を空堀(幅3-5m程)が鋭角に落とした切岸下をL字状に(堀底から高さ約4‐6m)西に廻り込み藪の中に竪掘となって落とす。六人部PA付近には城砦関連だけでもの大内城下層遺跡大内城・後正寺古墓<城址!!>・後正寺城・宮遺跡・城ノ尾遺跡(古墳群等調査1979‐82年)の丘陵端に城ノ尾城館がある。
  仁田城:西面(野間仁田側)の切岸と登城大手?(虎口形状有り)
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ケシケ谷遺跡等に隣り合う丘陵上に其々2‐7棟の住居跡が発見され、弥生時代も戦乱期にも村を護る自衛・防禦の高地の集落が形成されたが、弥生時代後期・古墳時代には丘陵部から平地に移り住む。市遺跡情報の分布地図仁田城はケシケ谷遺跡内を分断する北近畿道と六人部 PAが占める建設敷地内にあって消滅したものと思っていた…が分布地図から外れた西側に観る此の城遺構は? ”仁田城調査時の残存遺構に単郭・土塁・空堀とある”が壊滅・消滅とのコメントはない!?
        仁田城主郭の東北角土塁と下部にL字状空堀く
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六人部荘:平安末期の領家は大内城主の池大納言(平賴盛)。承久の乱(1221)に幕府に没収され後:後高倉院に返進されて以降の大内城城史は不明ですが、旧天田郡の六人部一帯を支配していた豪族に堀氏がおり、室町時代中期頃:文安年間(1444-497)守護:細川勝元や政元の奉行<天田郡郡司>として堀孫次郎が仕え、大永年間(1521-28)には堀上総進貞次が居城している。隣接する後正寺城も大内城を改修した孫次郎の持城と推察します。
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仁田城も大内城・後正寺城の支城として機能したものと思われるが仁田氏と掘氏の関係や高橋氏(高橋屋敷の?)との闘争に討たれたとされる仁田氏についても城史を未調査のため不詳。北面の空堀に沿う高い土塁を背にして、主郭内中程に祀られた小祠がある。「丹波志」に古城主仁田和泉守と云い子孫無しとも記され、また今に墓有りと云う。城主:仁田和泉守が地神として祀られているものかは?。


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