譲葉山城 Ⅱ 丹波市

譲葉山へは植林帯の中を歩く暗くて展望も殆んど望めず山頂には三角点もないためか人気は薄く、此の譲葉山だけを登山対象とする人は少ないかも…。しかし残暑厳しく湿度も高い不快な時期だけに谷通しに小さな瀬音を聴きながら、流れが消えても深い谷筋を風が流れ尾根筋は比較的緩斜面が続く。
        譲葉山城(西郭)の仕切り土塁 
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後期織田家廟所前を通る東奥からのコースは、登山口左上方に奥村城(東奥城)があり登山口右手と大安寺跡にも東奥古墳群(大安寺古墳群)の6号墳がある。大安寺跡も平安時代後期に柏原八幡神社の神宮寺として創建された由緒と、観音堂内には藤原時代(鎌倉時代)の作風を示す木彫漆箔造りの十一面観音菩薩像が安置され柏原町指定(昭和41年)文化財。譲葉山山頂は四方を低土塁で囲う方形曲輪内に譲葉権現堂が建つが、譲葉山城(東郭)で南西端に土塁虎口が開く。
      西郭北末端部:尾根先から西南側虎口を捲いて曲輪に入る
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空堀側から折れを向山連山への縦走路に移る西方約50m程には譲葉山城(西郭)【仮称】があり此方にも浅い空掘側に土塁を積む方形曲輪は西北曲輪部が低土塁で仕切られるが、主曲輪部の北東端は折れを伴う切岸沿いに低土塁線が続く。明智光秀が八上城・黒井城攻略に築いて多紀郡(篠山)・氷上郡(丹波)の連絡道と三尾山城へ尾根通しに通じる佐仲峠を監視の夏栗山砦、明智に味方して黒井城を攻めていた八上城主:波多野秀治が黒井城主:赤井・荻野勢と、
   西郭:空堀側から折れを意識した曲輪北東面
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明智軍を挟み撃ちした”赤井の呼び込み軍法”により、命からがら京へ逃れた栗柄峠に栗柄砦が在り、いずれも中世丹波の山城に稀有な土塁囲みは織田勢力の改修による向城とされます。いま辿ってきた登山コースの途中・旧電電公社(現:NTT)の無線中継施設の反射板が有った広い平坦地がある。雑木藪に覆われているが此の尾根続きから譲葉山へは尾根筋を巻きながら進むが、尾根筋を詰め上がると譲葉山西城【仮称】があるので山頂からの下山途中に寄ってみる。


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