柏原藩織田まつり 丹波市

2012年の”うまいもんフェスタ”(10月13-14日)・柏原藩織田まつり(10月14日)が柏原八幡神社一帯で開催された。過去には大坂(阪)城鉄砲隊による火縄銃実演等が行なわれた藩陣屋では市内山南町の青田獅子舞と柏原陣太鼓が披露された。
       獅子舞(花獅子)の天狗は子供達の演出に変えられのかな?
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陣太鼓は城下町(小藩で城を築く事が出来なかったが陣屋がある!!)のランドマーク:つつじ太鼓のある太鼓櫓で披露されたが、此処は後期柏原藩主1代目の信休が奈良宇陀から国替えの際に運び込まれたもの。
  青田獅子舞(おやまの道中) 鏡で化粧する動作の後・傘をさしての所作
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”織田まつり”の参加者や、観光客には前期織田家・後期織田家の区別は無いと思われますが、両織田家の柏原藩を理解していけば、まつりはもっと内容の深いものに、もっと面白い企画・展開が見られるかもしれません。
      時代行列は陣屋表御門(長屋門)前からスタート
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織田信長の弟・信包(のぶかね)が慶長3年(1598)安濃津(伊勢国)から3万千石で移封され柏原藩が立藩し、3代続き孫の信勝の死去により嗣子なく廃藩となり、慶安3年-元禄8年(1660-95)まで所領の氷上郡<丹波市>と天田郡<福知山市>及び
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何鹿郡<綾部市>の一部は天領となっていた。宇陀崩れ(お家騒動)により藩主自害・其の後継織田信休が元禄8年(1695)柏原藩2万石に減封され国替に伴い大和宇陀藩は廃藩された。柏原藩は天領期を挟み共に織田家が藩主となっているため
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前期織田家3代:後期織田家10代を分けて考えるが、洪水・旱魃さらに窮乏する藩財政のなかでスタートした信休ら後期織田家は5代信守の悪政で頂点を窮め? 8代: 信敬や9代信民が小島省斎と協力し取り組んだ藩政改革・藩校の設立等が霞む。
  フェスタ会場前の西樂寺:山陰道鎮無総督の西園寺公望が篠山福住の次宿として移った本陣
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まつり進行のアナウンスに”織田信長ゆかり…の柏原…”とあったが、”ゆかり”なら柏原八幡社にあった丹波攻略後の明智光秀本陣!。柏原藩とは無関係の信長だが織田家なら柏原藩前期:信包が信長の弟。後期:信休は信長の二男信雄の五男:高長から始まる大和宇陀藩後継者。”織田まつり”は明治4年(1871)の廃藩置県まで
       フィナーレはランドマーク:木の根橋
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176年続いた後期柏原藩織田家ではなく・僅か52年:三代で断絶した前期織田家に固執したもののようですネ。つつじ太鼓で知られる太鼓櫓は後期:信休が国替の際大和宇陀から持参したもの。今までは御旅所だった休憩場所も素通り…?。
 過去の柏原藩織田まつり関連ブログ 2007年10  2008年10  2008年10 

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