おさんの森(おさん・茂兵衛) 丹波市柏原町
丹波市柏原町下町沖田に”おさんの森”があり小さな祠が祀られています。此処を訪れた俳人松瀬青々氏の「浄瑠璃の古蹟ゆかしや 春の雨」 「この里に恋の茂兵衛や時鳥」の句がある。また祠の側には”おさん茂兵衛を偲ぶ”は川口松太郎氏(近松の戯曲を映画化し、香川京子・長谷川一夫・山本富士子主演の芝居「近松物語」で知られた)の碑も建てられています。
近松門左衛門の「大経師昔暦」や「恋八卦柱暦」・井原西鶴「好色五人女・大経師おさん」の浄瑠璃・歌舞伎・映画にと上演されてきた「おさん茂兵衛」の悲恋物語は、此処で追っ手に捉えられ京・粟田口の露と消える終幕の地。
近松戯曲「おさん茂兵衛」が道行きで越えた鳳越え<恩鳥(おんどり)坂>は柏原病院前から北へ下って挙田(あぐた)・鴨野から氷上町の稲畑・佐野へ抜ける小さな峠。峠の東側丘陵が小南山で柏原川を挟んで東は柏原町の中心地。明智光秀が本陣を置いた八幡山城がある。小南山頂部一帯には小南山城が在ったが詳細は不詳。延喜式山陰道が避けてきた篠山から鐘ヶ坂越えルートが出来て以後の旧山陰道が鐘ヶ坂・柏原小倉・恩鳥坂を新井・鴨野へ向かう県道290号線に繋ぐ旧山陰道が”おさんの森”祠前を通る。
恩鳥坂(左丘陵が小南山・中央奥カーブ先に柏原病院)
よく知られる物語で落語にも登場する!!、茂兵衛が生まれた里の金川家に伝わる伝承もあって、ストーリーの展開・場所・人物名等が異なりますが、経巻や書画類を表装・表具取替えを職としていたが、お得意先が京都御所や江戸城とあってはただの職人ではない。更に特殊な暦の編纂:大経師暦を任され刊行している。大経師:以春は浜岡権之助で、京都室町通リは京都下京区四条烏丸…
”大経師”以春の妻”おさん”と茂兵衛は許嫁(いいなずけ)だったとの伝承は「謎の丹波路」等の著書のある作家で丹波出身の春木一夫氏とは縁戚筋とも云い、どれか?の著書のなかにも触れられていたような…!!?。血脈大事の武家と違って密通で死罪は重過ぎる…と思うが帯刀を許される商人・学者なら…茶人:千利休のように切腹させられることも…
”おさん・茂兵衛”は天和3年(1683)8月に捕らえられ9月22日京都粟田口で処刑されたとされます。下女”おたま”は茂兵衛の恋人ではなく、二人の逢瀬を手引きした罪で斬首刑にされたが、大経師浜岡家も、独占権を京都所司代を差し置いて、江戸奉行所に願い出た為<江戸城・江戸幕府から任された仕事があって江戸にいたからか!?>・京都所司代の怒りを買い翌:貞享元年 (1684)断絶している】
”ステ女”と「ニノ字・二ノ字下駄の跡」を表現した柏原川に架かる橋の背後は小南山
周辺は整備され再訪(2012年12月末 )では・なにか場違いの場所に来た様な感じがした。石の階段・石鳥居・小さな祠も真新しくしかも屋根・扉・脇障子も石造り・石組みされたもの。木造りから石造り…維持管理していく御苦労もわかるのですが、遺跡周囲の以前の暗く 寂しい情景こそが戯曲「おさん茂兵衛」にシックリと合うのに…と想うと、綺麗に整備されていることで却って殺風景な狭い場所:歴史を偲ぶ場所では無くなってしまった様。

近松門左衛門の「大経師昔暦」や「恋八卦柱暦」・井原西鶴「好色五人女・大経師おさん」の浄瑠璃・歌舞伎・映画にと上演されてきた「おさん茂兵衛」の悲恋物語は、此処で追っ手に捉えられ京・粟田口の露と消える終幕の地。
近松戯曲「おさん茂兵衛」が道行きで越えた鳳越え<恩鳥(おんどり)坂>は柏原病院前から北へ下って挙田(あぐた)・鴨野から氷上町の稲畑・佐野へ抜ける小さな峠。峠の東側丘陵が小南山で柏原川を挟んで東は柏原町の中心地。明智光秀が本陣を置いた八幡山城がある。小南山頂部一帯には小南山城が在ったが詳細は不詳。延喜式山陰道が避けてきた篠山から鐘ヶ坂越えルートが出来て以後の旧山陰道が鐘ヶ坂・柏原小倉・恩鳥坂を新井・鴨野へ向かう県道290号線に繋ぐ旧山陰道が”おさんの森”祠前を通る。
恩鳥坂(左丘陵が小南山・中央奥カーブ先に柏原病院)
よく知られる物語で落語にも登場する!!、茂兵衛が生まれた里の金川家に伝わる伝承もあって、ストーリーの展開・場所・人物名等が異なりますが、経巻や書画類を表装・表具取替えを職としていたが、お得意先が京都御所や江戸城とあってはただの職人ではない。更に特殊な暦の編纂:大経師暦を任され刊行している。大経師:以春は浜岡権之助で、京都室町通リは京都下京区四条烏丸…
”大経師”以春の妻”おさん”と茂兵衛は許嫁(いいなずけ)だったとの伝承は「謎の丹波路」等の著書のある作家で丹波出身の春木一夫氏とは縁戚筋とも云い、どれか?の著書のなかにも触れられていたような…!!?。血脈大事の武家と違って密通で死罪は重過ぎる…と思うが帯刀を許される商人・学者なら…茶人:千利休のように切腹させられることも…
”おさん・茂兵衛”は天和3年(1683)8月に捕らえられ9月22日京都粟田口で処刑されたとされます。下女”おたま”は茂兵衛の恋人ではなく、二人の逢瀬を手引きした罪で斬首刑にされたが、大経師浜岡家も、独占権を京都所司代を差し置いて、江戸奉行所に願い出た為<江戸城・江戸幕府から任された仕事があって江戸にいたからか!?>・京都所司代の怒りを買い翌:貞享元年 (1684)断絶している】
”ステ女”と「ニノ字・二ノ字下駄の跡」を表現した柏原川に架かる橋の背後は小南山
周辺は整備され再訪(2012年12月末 )では・なにか場違いの場所に来た様な感じがした。石の階段・石鳥居・小さな祠も真新しくしかも屋根・扉・脇障子も石造り・石組みされたもの。木造りから石造り…維持管理していく御苦労もわかるのですが、遺跡周囲の以前の暗く 寂しい情景こそが戯曲「おさん茂兵衛」にシックリと合うのに…と想うと、綺麗に整備されていることで却って殺風景な狭い場所:歴史を偲ぶ場所では無くなってしまった様。
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