大沢城 篠山市

篠山ICを出て,JR福知山線を跨ぐ県道94号陸橋を越えると正面にコンクリートで固めて切立つ断崖から南へ延び上がる低丘陵尾根上に佐幾山城があった。JR篠山口駅とはR176号線を挟んで西に三角オニギリ状の山容を見せるのが禄庄城。此の二つの山城は先のブログで紹介済だが、禄庄城から南へ延び
        主郭東尾根の切岸と僅かに堀切?・片堀切
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更に西へ方向を変える尾根上に大沢城がある。此れ等の山城を初田酒井氏と家臣団の城として紹介してきた。承久の乱(1221)の戦功に相模国大住郡酒井郷から地頭として多紀郡(篠山市)酒井庄に来住した酒井兵衛次郎政親が丹波酒井氏の祖で酒井庄の矢代・初田・栗栖野・波賀野…等に酒井姓の一族武士集団が生まれたのが
       主郭北面:手前竪土塁側の井戸跡と二段の帯曲輪
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酒井党の始まり。波多野氏勢力に押され其の幕下に入った。明智光秀の丹波攻めが始まった天正期:大沢城の城主は若き青年大将:酒井勘四郎。天正6年丹波攻めには多勢の無勢・降伏の勧告を受けて開城し城を降りる事を指示し、自らは松尾山の高仙寺城に入ったようで?
  大沢城主郭西尾根上の小曲輪群<此処まで南北の帯曲輪が廻る>
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合戦・落城はなかった様子だが城跡からは”焼き米”等が出て城は落城炎上した感もある。いずれにしても僅か20年余りで歴史を閉じた小城で、勘四郎は八上城に入り落城後は光秀の軍門に降りて臣従するが、天正10年(1582)山崎の合戦に従軍し9月大津瀬田にて討死(享年僅か18歳)したと云われます。


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