味間北城 篠山市
丹波栗・丹波黒(大豆)・丹波大納言(小豆)…名を記さなくともブランドの猪肉・松茸等丹波特産品のなかでも大化年間(645~650)より伝わり其の魁となった丹波茶が静岡茶・宇治茶の名に霞んで知名度を失っているようです。しかし品種改良が進められ丹波霧の里で栽培される三田の母子(もうし)や味間の里に代表される丹波茶の方が高級茶葉となる要素は大きく、県下の主産地として良質の丹波の茶所は大国寺(国宝は無いが篠山市内の仏像で重文の1/3は此処に安置されている)を中心に例年”丹波茶まつり(ページ内下方ブログは←此処)”が開催されています。
味間北城の堀切≪当時:堂内での撮影者は数名しかいなかった。HP使用の以前画像は容量が大きく、5k-8k程度に抑えて再編集したが、本堂前の虚無僧等は人々の位置や動き等も角度・距離感はサイズが縦割り編集されているが殆ど?変わらない同様の画像を”味間茶祭り”の関連サイトで見かけた。少し見易い画像は其方のサイトで見てください!!≫
主郭を360度廻す二重の帯曲輪から堀切への西南斜面味間地区(味間谷)の中程に位置して大国寺が在り、地区の中央部を住吉川がR176号線沿いに流れ出る。R176号から県道36号(味間谷)に入る分岐・西古佐の丘陵上に平井山城が在り、味間北集落の北背後の比高僅か2-30m程の低丘陵上に味間北城が在った。
二重の帯曲輪下段から最上部の主郭(東北方から)味間南から文保寺への参道左手(東)丘陵上には味間南城が在り城址の尾根筋東西麓には空掘が・主郭部の櫓台大土塁や虎口・小規模城郭だが北・東・西の三方の枝尾根上にも物見の曲輪か?平坦地形が遺るが、味間南城は後日の紹介。○会社や民家背後から数分で主郭に到達出来る距離だが低丘陵沿い南西に建つ朱屋根の阿弥陀堂から殆ど高低差も感じない?鞍部に向かう。
阿弥陀堂前の石碑は城主のものとされるが安村氏か・味間(三崎)氏か・谷後氏か?…
天正6年明智光秀の”丹波攻略”に大沢城・禄庄城・佐幾山城が攻められた際・同時に攻め落とされたものと思えるが、城主は味間谷に勢力をもつ土豪味間(三崎)伊豆守秀友か安村丞太夫、山裾に同じ姓をみる谷後和泉守の居城ともいわれますが、安村氏の城とするのが優勢の様?です。

味間北城の堀切≪当時:堂内での撮影者は数名しかいなかった。HP使用の以前画像は容量が大きく、5k-8k程度に抑えて再編集したが、本堂前の虚無僧等は人々の位置や動き等も角度・距離感はサイズが縦割り編集されているが殆ど?変わらない同様の画像を”味間茶祭り”の関連サイトで見かけた。少し見易い画像は其方のサイトで見てください!!≫
主郭を360度廻す二重の帯曲輪から堀切への西南斜面味間地区(味間谷)の中程に位置して大国寺が在り、地区の中央部を住吉川がR176号線沿いに流れ出る。R176号から県道36号(味間谷)に入る分岐・西古佐の丘陵上に平井山城が在り、味間北集落の北背後の比高僅か2-30m程の低丘陵上に味間北城が在った。
二重の帯曲輪下段から最上部の主郭(東北方から)味間南から文保寺への参道左手(東)丘陵上には味間南城が在り城址の尾根筋東西麓には空掘が・主郭部の櫓台大土塁や虎口・小規模城郭だが北・東・西の三方の枝尾根上にも物見の曲輪か?平坦地形が遺るが、味間南城は後日の紹介。○会社や民家背後から数分で主郭に到達出来る距離だが低丘陵沿い南西に建つ朱屋根の阿弥陀堂から殆ど高低差も感じない?鞍部に向かう。
阿弥陀堂前の石碑は城主のものとされるが安村氏か・味間(三崎)氏か・谷後氏か?…
天正6年明智光秀の”丹波攻略”に大沢城・禄庄城・佐幾山城が攻められた際・同時に攻め落とされたものと思えるが、城主は味間谷に勢力をもつ土豪味間(三崎)伊豆守秀友か安村丞太夫、山裾に同じ姓をみる谷後和泉守の居城ともいわれますが、安村氏の城とするのが優勢の様?です。
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