味間北城 篠山市
丹波栗・丹波黒(大豆)・丹波大納言(小豆)…名を記さなくともブランドの猪肉・松茸等丹波特産品のなかでも大化年間(645~650)より伝わり其の魁となった丹波茶が静岡茶・宇治茶の名に霞んで知名度を失っているようです。
味間北城の堀切しかし品種改良が進められ丹波霧の里で栽培される三田の母子(もうし)や味間の里に代表される丹波茶の方が高級茶葉となる要素は大きく、県下の主産地として良質の丹波の茶所は大国寺(国宝はないが市内の重文:仏像の1/3は此処に安置されている)を中心に例年”丹波茶まつりが開催されている。
主郭を360度廻す二重の帯曲輪から堀切への西南斜面味間地区(味間谷)の中程に位置して大国寺が在り、地区の中央部を住吉川がR176号線沿いに流れ出る。R176号から県道36号(味間谷)に入る分岐・西古佐の丘陵上に平井山城が在り、味間北集落の北背後の比高僅か2-30m程の低丘陵上に味間北城が・味間南から文保寺への参道左手(東)丘陵上には味間南城がある。
二段の帯曲輪と最上部の主郭南城は尾根筋東西麓に空掘?・主郭部の櫓台大土塁や虎口・小規模城郭だが北・東・西の三方の枝尾根上にも物見の平坦地形が残る。北城は○会社や民家背後から数分で主郭に到達出来る距離だが低丘陵沿い南西に建つ主屋根の阿弥陀堂から殆ど高低差も感じない?鞍部に向かう堀切道。
阿弥陀堂前石碑:城主の安村氏?か・味間(三崎)氏か?・谷後氏?のもの…
天正6年明智光秀の”丹波攻略”に大沢城・禄庄城・佐幾山城が攻められた際・同時に攻め落とされたものと思えるが、城主は味間谷に勢力をもつ土豪味間(三崎)伊豆守秀友か安村丞太夫、山裾に同じ姓をみる谷後和泉守の居城ともいわれますが、安村氏の城とするのが優勢の様?です。

味間北城の堀切しかし品種改良が進められ丹波霧の里で栽培される三田の母子(もうし)や味間の里に代表される丹波茶の方が高級茶葉となる要素は大きく、県下の主産地として良質の丹波の茶所は大国寺(国宝はないが市内の重文:仏像の1/3は此処に安置されている)を中心に例年”丹波茶まつりが開催されている。
主郭を360度廻す二重の帯曲輪から堀切への西南斜面味間地区(味間谷)の中程に位置して大国寺が在り、地区の中央部を住吉川がR176号線沿いに流れ出る。R176号から県道36号(味間谷)に入る分岐・西古佐の丘陵上に平井山城が在り、味間北集落の北背後の比高僅か2-30m程の低丘陵上に味間北城が・味間南から文保寺への参道左手(東)丘陵上には味間南城がある。
二段の帯曲輪と最上部の主郭南城は尾根筋東西麓に空掘?・主郭部の櫓台大土塁や虎口・小規模城郭だが北・東・西の三方の枝尾根上にも物見の平坦地形が残る。北城は○会社や民家背後から数分で主郭に到達出来る距離だが低丘陵沿い南西に建つ主屋根の阿弥陀堂から殆ど高低差も感じない?鞍部に向かう堀切道。
阿弥陀堂前石碑:城主の安村氏?か・味間(三崎)氏か?・谷後氏?のもの…
天正6年明智光秀の”丹波攻略”に大沢城・禄庄城・佐幾山城が攻められた際・同時に攻め落とされたものと思えるが、城主は味間谷に勢力をもつ土豪味間(三崎)伊豆守秀友か安村丞太夫、山裾に同じ姓をみる谷後和泉守の居城ともいわれますが、安村氏の城とするのが優勢の様?です。
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