平井山城 Ⅱ 篠山市

篠山市味間地区は八上城主波多野秀治の遺児・甚蔵が八上落城の際:乳母の里:味間に逃れた後…篠山藩主松平忠国に仕え味間・黒石・市原等7ヶ村の代官となり、波多野甚蔵屋敷の長屋門が遺るが殊にR176号線から県道36号を味間地区に入る分岐点付近から味間北城の北方に入り込む谷間の三釈迦山・里見山山麓一帯から田圃の中にも数多くの古墳が点在する。
      平井山城:主郭と東面の切岸
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過去に紹介済の平井山城(西古佐小屋床・西古佐城)も山麓から火ともし山山頂にかけても数基のイミノ木古墳があるが主郭からの西尾根を降れば「県立川代<丹波に名称替え?>並木道中央公園」に出る。公園整備中にも桂ヶ谷 ・ずえが谷・灰高等の遺跡群や古墳群が発見されており、弥生時代中期から古墳時代後期までの遺跡が多く残されていています。
         東面の折れを伴う切岸と帯曲輪Ⅰ
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平井山城(西古佐小屋床)については以前のブログとホームページ上で紹介済なので、今回再訪時の画像を添付していますが、此の地区一帯を弥生〜古墳時代の遺構抜きでは通り抜けられない様に思える… と云って古墳詳細は…思わぬクレームを受けそうなので場所・規模・構造等は割愛します…。ただ発掘調査が進行中なのか、保存計画等が有った筈ですが、此処でも新たな恐竜化石の発見でそれどころではないのかも?
          東尾根先の竪堀
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高地集落は一般的に・敵から身を守るため一時的に設けられるが、桂ケ谷の集落遺跡は場所を変えながらも途切れることなく(五十棟の竪穴住居跡を確認)集落が営まれ、維持され続けた珍しい例と云う。稲刈りに使う石庖丁の出土やイノシシ捕獲の落とし穴や墳墓群も見つかり、ずえが谷遺跡では弥生時代終末期の方形周溝墓(丹波地域では初めて)が見つかり、丹後地方の王墓と共通する舟形木棺の出土では北近畿とのつながりをも暗示させます。灰高では篠山市内最古級の横穴式石室の発見が相次いだようです。   
   主郭部北端の切岸と土橋付堀切
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小屋床(平井山城)は南北50m程の城域は主郭北端に土橋付き堀切・南端に低土塁を持つ主曲輪・副曲輪の二郭構成の小規模な山城ですが、主郭東面は横矢掛の折れをもち切岸も崩れず良好に遺る。東方と南方から東へと緩斜な尾根筋に向けて二段の帯曲輪が捲き、東1段目と南面からの帯曲輪は主郭側切岸と共に段差は顕著。単に緩斜な自然地形と思えた東尾根も、北東下方へ落ちる一条の長い竪掘をみる先端付近・尾根筋は崩れているが北から南へ小曲輪が竪堀の側(そば)まで捲く。先に曲輪があれば片堀切だが!!。竪堀はR176号線に落ち込んでいる様だが、国道向いに宅地造成の住吉台側に在った西山城が在った。大山城の中澤氏・玉巻城の久下氏が拠ったと云われる西山城と近接の平井山城が呼応した中世後期の遺構なのでしょう……


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