味間南城 篠山市
R176号の北正面に住吉台の丘陵を見て、西に回り込む国道に”丹波茶の里・大国寺”の案内板が立つ西古佐の三叉路。左折して西脇市に抜ける県道36号に入るコーナー北の丘陵上の火燈し山に平井山城があり更に山裾5~600m先・味間北の集落入口北方の集落内の低丘陵部には味間北城がある。
墓地背後の土塁・空掘味間谷の中央部を住吉川が流れており、味間北城と平井山城の間:南方には松尾山(高仙寺城)〜白髪岳の山並みを望む。山陰で所在が判り難いが[三角おむすび」状の低丘陵部が松尾山から北に延び出す尾根先に見える。此の丘陵西の山裾に古刹文保寺がある。尾根筋東側の丘陵部を東へ追っていくと佐幾山城に行き着くが…!!文保寺への参道東側丘陵の北端部山上に味間南城が在りました。
主郭の幅広大土塁(櫓台!!)此の城もまた城主等の城史は不詳ですが、中世後期の城主として平野酒造之丞(または主馬之丞)が拠った云われ、一帯の城砦群は大山城の中澤氏(長沢氏)や大沢城の初田酒井党:酒井勘四郎傘下にあって、多紀郡領主:波多野氏に付き八上城西の要衝を警護していたのでしょうが、織田信長の「丹波攻め」の大将:明智光秀の八上城攻略の際・八上城攻撃の前哨戦に、周辺の小城は悉く落城していきます。…戦闘記録や伝承は無さそう?なので、多勢に無勢なので光秀からの勧告を受けて城を降り、光秀に付いて以後従軍したか、帰農したものか?
主郭から副郭へ:上り土塁虎口所在不詳ながら味間南城に在った福井谷館は平野氏の居館だった様で、味間南城の南東山麓の茶畑の奥に祀られる地神は平野株(平野家)で管理されています。其の斜面上部の山道には城史不詳で城址との関連は不明だが小前株(小前家一族)の先祖碑が立つ。此処から尾根筋40m程先が城址の主郭大土塁。山道を東へ降ると墓地だが其の背後に土塁・空掘がある。この土塁・空掘は尾根筋を隔てた西側麓・文保寺側にも在るが、尾根筋に堀切は無い?。
北末端部の出曲輪(大手門?)円形窪地は祠跡か?大土塁を背にした主郭と北東の副郭による二曲輪構成で土塁虎口が北端にある。防備に疑問は残るが特異な遺構としては主郭大土塁の西下(文保寺側)・副郭の虎口を出た北下(大手口か?)・副郭北東角から東下には二曲輪からなる三方に出曲輪を持つ。其々の方向性からも監視台としての曲輪は想定出来ます。
墓地背後の土塁・空掘味間谷の中央部を住吉川が流れており、味間北城と平井山城の間:南方には松尾山(高仙寺城)〜白髪岳の山並みを望む。山陰で所在が判り難いが[三角おむすび」状の低丘陵部が松尾山から北に延び出す尾根先に見える。此の丘陵西の山裾に古刹文保寺がある。尾根筋東側の丘陵部を東へ追っていくと佐幾山城に行き着くが…!!文保寺への参道東側丘陵の北端部山上に味間南城が在りました。
主郭の幅広大土塁(櫓台!!)此の城もまた城主等の城史は不詳ですが、中世後期の城主として平野酒造之丞(または主馬之丞)が拠った云われ、一帯の城砦群は大山城の中澤氏(長沢氏)や大沢城の初田酒井党:酒井勘四郎傘下にあって、多紀郡領主:波多野氏に付き八上城西の要衝を警護していたのでしょうが、織田信長の「丹波攻め」の大将:明智光秀の八上城攻略の際・八上城攻撃の前哨戦に、周辺の小城は悉く落城していきます。…戦闘記録や伝承は無さそう?なので、多勢に無勢なので光秀からの勧告を受けて城を降り、光秀に付いて以後従軍したか、帰農したものか?
主郭から副郭へ:上り土塁虎口所在不詳ながら味間南城に在った福井谷館は平野氏の居館だった様で、味間南城の南東山麓の茶畑の奥に祀られる地神は平野株(平野家)で管理されています。其の斜面上部の山道には城史不詳で城址との関連は不明だが小前株(小前家一族)の先祖碑が立つ。此処から尾根筋40m程先が城址の主郭大土塁。山道を東へ降ると墓地だが其の背後に土塁・空掘がある。この土塁・空掘は尾根筋を隔てた西側麓・文保寺側にも在るが、尾根筋に堀切は無い?。
北末端部の出曲輪(大手門?)円形窪地は祠跡か?大土塁を背にした主郭と北東の副郭による二曲輪構成で土塁虎口が北端にある。防備に疑問は残るが特異な遺構としては主郭大土塁の西下(文保寺側)・副郭の虎口を出た北下(大手口か?)・副郭北東角から東下には二曲輪からなる三方に出曲輪を持つ。其々の方向性からも監視台としての曲輪は想定出来ます。
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