高山寺城 丹波市氷上町
弘浪山の山頂直下の山腹に、平平宝字元年(757)法道仙人の開基を伝え、仁平3年(1153)源平の兵乱により焼失。平安時代末期:文治5年(1189)源頼朝の命により東大寺の俊乗坊重源上人により再興された古刹高山寺は、源平・南北朝や元亀・天正の兵乱と…・度重なる戦乱の兵火に遭い焼失・再建を繰り返しているが、建保 ・承久年間(1213-21)関東から荻野一族が来住すると、土豪や足利氏との交戦に要害の地にある高山寺は全山が城郭化された高山寺城として度々戦場ともなります。
高山寺跡(仁王門・本堂への石垣・石積参道と水路)南北朝期に葛野庄地頭で丹波守護代だった荻野朝忠(ともただ)は、赤井為家の次男として新郷に生まれたが荻野姓を名乗る荻野一党の先祖。高山寺を城塁とし丹後・若狭にも勢力を張っており、夜久野の龍ヶ城も朝忠の持城。後醍醐天皇の元弘3年(1333)千種(源)忠顕に従って幕府軍と戦い六波羅を攻めたが京都で破れ、荻野・児島・本庄氏等敗軍約3000を集めて高山寺城に拠って以来城砦となったことは「太平記」にも記述されています。
歴代住職の卵塔群(山中の別所にもあるが…!!)足利高氏が篠村八幡宮に挙兵した際:丹波の近隣武士は足利方に馳せ参じたが、荻野朝忠は児島高徳ら反足利連合軍を結成し高山寺城に籠ったが、山名時氏の兵糧攻めに荻野朝忠は遂に城を出て降り尊氏に帰服します。建武中興成った延元元年(建武4_1336)仁木頼章が丹波守護となって高山寺を修復(寺院の修復か?城塁化していったかは不詳)。朝忠は仁木氏の信頼を得て翌年〜康永2年(1343)丹波守護代をも務めているが、丹波における其の後の動向や勢力関連には不明点も多い謎の人物。
氷上盆地に霧山・野山・横田の各城山や向山連山を望む高山寺城は其の後も南北両軍が互いに占領したところで、住僧は四散して寺も荒廃に帰していたが、永正6年(1509)新郷後屋城主の赤井伊賀守忠家によって再興され寺運は再び栄えた云う。
高山寺城最後の城主は元亀・天正年代の初め波多野氏一族の大舘左近将監氏忠で黒井城主荻野直正に与して丹波攻めの明智軍に抗し後屋城・高見城・穂壷等諸城と連繋しながら戦ったが、天正3年(1575)城主氏忠が多紀郡(篠山市)に出陣中の虚を突かれ光秀軍に攻められたといわれます。展望には恵まれない高山寺城ですが東南尾根水平道の”盗人崩れ”付近からは氷上盆地の足下に後屋城・東方に霧山・ガンジュウジ城・向山の諸城・東南には穗壷から高見城への城砦群が眺望出来る。

高山寺跡(仁王門・本堂への石垣・石積参道と水路)南北朝期に葛野庄地頭で丹波守護代だった荻野朝忠(ともただ)は、赤井為家の次男として新郷に生まれたが荻野姓を名乗る荻野一党の先祖。高山寺を城塁とし丹後・若狭にも勢力を張っており、夜久野の龍ヶ城も朝忠の持城。後醍醐天皇の元弘3年(1333)千種(源)忠顕に従って幕府軍と戦い六波羅を攻めたが京都で破れ、荻野・児島・本庄氏等敗軍約3000を集めて高山寺城に拠って以来城砦となったことは「太平記」にも記述されています。
歴代住職の卵塔群(山中の別所にもあるが…!!)足利高氏が篠村八幡宮に挙兵した際:丹波の近隣武士は足利方に馳せ参じたが、荻野朝忠は児島高徳ら反足利連合軍を結成し高山寺城に籠ったが、山名時氏の兵糧攻めに荻野朝忠は遂に城を出て降り尊氏に帰服します。建武中興成った延元元年(建武4_1336)仁木頼章が丹波守護となって高山寺を修復(寺院の修復か?城塁化していったかは不詳)。朝忠は仁木氏の信頼を得て翌年〜康永2年(1343)丹波守護代をも務めているが、丹波における其の後の動向や勢力関連には不明点も多い謎の人物。
氷上盆地に霧山・野山・横田の各城山や向山連山を望む高山寺城は其の後も南北両軍が互いに占領したところで、住僧は四散して寺も荒廃に帰していたが、永正6年(1509)新郷後屋城主の赤井伊賀守忠家によって再興され寺運は再び栄えた云う。
高山寺城最後の城主は元亀・天正年代の初め波多野氏一族の大舘左近将監氏忠で黒井城主荻野直正に与して丹波攻めの明智軍に抗し後屋城・高見城・穂壷等諸城と連繋しながら戦ったが、天正3年(1575)城主氏忠が多紀郡(篠山市)に出陣中の虚を突かれ光秀軍に攻められたといわれます。展望には恵まれない高山寺城ですが東南尾根水平道の”盗人崩れ”付近からは氷上盆地の足下に後屋城・東方に霧山・ガンジュウジ城・向山の諸城・東南には穗壷から高見城への城砦群が眺望出来る。
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