堀越城 福知山市

堀越城は民話金の椎の実で紹介した”生野の里”。主郭を置く山頂部Ca165mの山名が小倉山(大蔵山)、東尾根上の出曲輪と思える三段曲輪部には上六人部簡易水道配水池の施設が建つ。配水池から尾根上方約60m程?の緩斜面途中には点標名:生野(4等三角点123.5m)の石標が埋まる。此処は細野峠を越え京と丹後・山陰を結ぶ京街道筋にあって和泉式部の娘小式部内侍の「大江山 生野の道の遠ければ まだ文も見ず天の橋立」と小倉百人一首に詠まれた山陰道の宿場町・延喜式にも其の名がある生野の里で綾部藩九鬼氏の領地:丹後宮津藩主も参勤交代の際には此処が本陣ともなった所。
      堀越城主郭の帯曲輪西面切岸(西尾根側下方の段曲輪から望む)
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堀越城の城主は天正年中(1573-92)六人部(むとべ)六大将の一人に数えられる小倉左近太夫(小倉左近(左京)進とも小倉将監とも伝えられる!?)で家老に清畠氏(溝端か?)・井本氏・市田氏等が居たようです。堀越城の支城として:其の家臣等が居城したのがR9号(山陰道)と土師(はぜ)川を挟んで堀越城の北山麓の坂室や正後寺集落に在った城館跡だったか?…は城史等詳細が一切不明。
 西尾根側曲輪から主曲輪を回り込み斜上して帯曲輪に向かう虎口部
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福知山市史の堀越城図とある「古城址見取図絵巻<文化年間>」には環濠居館の様で天正期の城主:小倉左近太夫…とあるが版の古い市遺跡情報地図には現在正後寺城!?の位置が堀越城が記され?見取図も堀越城よりは正後寺城に似ている様だ?。堀越城主郭部は東西の尾根筋に数段の曲輪(土塁曲輪も有り)、主曲輪の切岸(約4‐7m程)下に三方に帯曲輪を廻し、
  主郭部東端の土塁曲輪
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帯曲輪北側の膨らみ(虎口受曲輪を兼ねた部分か?)は主曲輪下から斜上して帯曲輪に入る虎口。位置や城名がWebの遺構分布地図には更新されている様。2011年8月に2‐3度目の訪城時に姫髪山城を大門・和久寺から山頂まで南尾根を辿り、また南尾根下方の城遺構からは東北の長安寺公園側へ降る尾根筋もトレースして、尾根上やピークに複数の曲輪段を発見したが、この時の報告でも人伝てに市側では”堀切がないので城じゃない?…の見解を聞いた。
  東尾根末端の三段曲輪(二段は簡易水道配水池施設)
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数年前より京都府として埋蔵文化財の再調査が進められ報告書が出されたよう。姫髪山城が報告書に収められているかは未確認。それとは対照的に!?…堀越城とは東に土師川を挟んだR9号(山陰道)側の三俣城(市や府の遺跡地図には城と記載されている特異な縄張)が本当に城として報告されているのか?、珪石の露天掘り跡?として抹消されているのかも未確認。報告書や遺跡分布地図等への記載位置や記載内容のミスに過剰反応し過ぎなのかも!!。


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