平山城館 綾部市

木坂城を下り茗荷谷城に寄った後・府道486号を南下して府道485号に出て綾部JCT(舞鶴若狭道 )高架との中程、約150m程の地点(府道の西側に駐車スペースがある)から東へ、手動調整水門が側にある大谷川に架かる仲溝橋を渡り字名:西岡・東岡・奥ノ谷への幅狭い車道を進む。
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レポート最下段の地図を拡大・参照してください。二ヶ所の綾部JCT(分岐点)中間点付近から舞鶴若狭道と平行に東に向かう幅狭い地区道に入って約300m程?か、集落内に八幡宮の燈篭が立つ”奥ノ谷”T字辻がある。此処から南に入る地区道を挟んで左右に並ぶ小さな丘陵部があり、西(右手)の藪山が平山城館跡、燈篭の有る辻から左手(東)の墓地への参道先にある丘陵部が平山東城です。
 自動車道を挟む北側丘陵部(山上部は見た目以上の凄い藪)
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何れも比高20m程で南へ延びる丘陵部は自動車道で寸断されている様!!です。平山城館は八幡宮燈篭(当初の八幡神社は廃され其の旧社域に”平山山ノ神”の祠が祀られている)から南への地区道右手に子供の遊戯施設があり、其処に落ち込む竹薮・潅木が繁茂し踏み込む余地も無さそうな崖状の小さな丘陵が自動車道を跨ぎ南側の高城城山系の山麓へ続くのが平山城館だが、現状からは当地域では稀有とも思える畝状竪掘が確認されている。自動車道で寸断され消滅している中央専用道路部分が主曲輪跡なのでしょうか?。
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自動車道で寸断された北側は地区道から田圃を横切り・畑地から 3‐5mの切岸を斜上して竹林の広い平坦台地に入ると西端の切岸(6‐7m程)下を帯曲輪が廻っている様子。平坦段の背後東から南側にかけても7‐8mの切岸を立てるが急斜面上の曲輪?は竹薮ではなく猛烈な下草藪・茨蔓にも悩まされ押し戻され・藪漕ぎで進むのも至難では遺構の表面観察も無理っぽい為に引き返したが、高い切岸下の広い竹薮内は削平状態も良く武家屋敷群跡と思えるが、自動車専用道整備工事前の発掘調査前後の状況や調査報告書を閲覧する機会も無いままで詳細は不明。
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燈篭の立つ辻から南への地区道右に子供遊戯施設(崖上が城址)前を通り、舞鶴若狭道の”綾部17”隧道を抜け出た右手上方に自動車道工事関係車輌駐車スペースがあり、その手前から数10m程の簡易舗装山道があるが直ぐ地道になる。旧八幡神社の参道だったか?現状:平山山ノ神の祠前に着く。
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祠側に落ちる竪土塁沿いに尾根上へ山道を進むと此処にも小さな祠があり、両手で蓮を手に持つ菩薩像らしい石仏一基が祀られるが 薄肉彫のうえ風化・磨耗が進み素人目では像の判断が出来ない。小さな祠だが鴨居の梁の中央部の短い棟束<つか>?(吊り束か?正確な名称を知らないが!!)には ”丸に渡辺星”の家紋が入っている。昭和54年に作製・再建された渡辺某氏によるものか?嵯峨源氏流の渡辺氏の家紋。大槻氏は赤井氏(丹波市)と同様に清和源氏流だが赤井氏は”結び雁金”が家紋?。此の祠も”山ノ神”同様に自動車道の用地買収により此処に再建され遷宮されている
  尾根筋を切岸と堀切で遮断・曲輪外(上部)は自動車道
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小広い下草藪の空間が拡がるが 尾根に取付く急な山道を大土塁(竪土塁)状に沿い登り始める。山道と大土塁(竪土塁)状の間の溝は深くなり・そのまま尾根筋を遮断して尾根向いの斜面に落ちていく堀切。掘切の外側(北)は曲輪らしい平坦段(藪で現状把握も出来ない)は直ぐ北側が自動車道に寸断されているが平山城館は此処が主郭だったのかも?。車道を挟んだ北向いの鬱蒼とした竹薮と潅木に覆い尽くされた丘陵上部も城域の曲輪群が存在したと思える。
  自動車道で寸断された北の竹藪内は広大な屋敷跡?
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自動車道南側から高城城へ続く丘陵尾根側山麓:山ノ神の堀切から南への尾根筋上方にも2段程の削平段があり2段目に石仏が祀られ比較的よく踏まれた山道が更に上方に向かう。高城城まで繋がるかは不明?だが平山東城の城主大槻備中守は高城城城主でもあり、高城城への搦手 と思える登城ルートも南北朝期は大手道だったのかも?。室町期には 姫城・嶋間城の在る島萬神社側が大手道となっていたものか?。現状でも北方:平山東城付近からの山道が一番短絡の様!?。


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