平山東城 綾部
平山城館へは集落内の辻に立つ旧八幡宮の燈篭から南の舞鶴若狭自動車道の隧道”綾部17”を抜ける道路公団工事用と地区道の兼用道路?を分け、西側に平山城館…東側の民家背後、燈籠の立つ辻の東側地区道(幅狭い車道)から山腹の墓地へ
東面の高い切岸沿いに低土塁が築かれる参道を進めば平山東城がある。南北朝期初期の建武年間頃の高城城城主大槻備中守の下館が平山東城だったか?。地区内の八幡宮燈篭側から民家裏手へ斜上・または少し車道を進めば直接墓地へ向かう参詣道がある。
墓地への参道下にも曲輪らしい二段程の平坦地がある墓地の上方に二段程の曲輪・下方にも削平段が有って墓地も曲輪跡だった様。墓地から斜上する登城道を上ると切岸上に低土塁を廻す曲輪(二ノ丸か三ノ丸跡か?)が在る。南端から更に延びていたと思える城域は自動車道で寸断され消滅しているが空堀や井戸が敷設された主郭部が舞鶴若狭道で消えた空間にあったものか?。低土塁を廻す曲輪(2 or 3ノ曲輪?)の東面は切岸高いが下方に
曲輪等の城遺構は無なさそう。北斜面下方。集合墓地下に1‐2段の腰・帯曲輪の平坦段があり、最下段(地区車道側)の小墓地に降りたが土盛りされた土檀上に一基の燈籠と五輪塔・一石五輪塔が5‐6基並べ祀られている。花筒にシキミや四季の花が供えられているが一般的な墓石は無いので、時代は不明ながら平山東城の城主:大槻氏一族等に関連の供養碑の様だ。
東面の高い切岸沿いに低土塁が築かれる参道を進めば平山東城がある。南北朝期初期の建武年間頃の高城城城主大槻備中守の下館が平山東城だったか?。地区内の八幡宮燈篭側から民家裏手へ斜上・または少し車道を進めば直接墓地へ向かう参詣道がある。
墓地への参道下にも曲輪らしい二段程の平坦地がある墓地の上方に二段程の曲輪・下方にも削平段が有って墓地も曲輪跡だった様。墓地から斜上する登城道を上ると切岸上に低土塁を廻す曲輪(二ノ丸か三ノ丸跡か?)が在る。南端から更に延びていたと思える城域は自動車道で寸断され消滅しているが空堀や井戸が敷設された主郭部が舞鶴若狭道で消えた空間にあったものか?。低土塁を廻す曲輪(2 or 3ノ曲輪?)の東面は切岸高いが下方に
曲輪等の城遺構は無なさそう。北斜面下方。集合墓地下に1‐2段の腰・帯曲輪の平坦段があり、最下段(地区車道側)の小墓地に降りたが土盛りされた土檀上に一基の燈籠と五輪塔・一石五輪塔が5‐6基並べ祀られている。花筒にシキミや四季の花が供えられているが一般的な墓石は無いので、時代は不明ながら平山東城の城主:大槻氏一族等に関連の供養碑の様だ。
この記事へのコメント
平山東城館跡の発掘調査略報が、「京都府埋蔵文化財情報 第23号」P57-58に掲載されていましたので、ご存じとは思いますが、お知らせしておきます。
http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/jyouhou/kyoutofu-J23.pdf
また 情報の お知らせ ありがとうございます
以前に 平山城館と平山東城 をHP ↓ にUPしていますhttp://kirinosato.fc2web.com/KYOTOayabe_5-siro.htm#hirayama
UP当初発掘調査中を知っていたのですが内容未更新のまま…です
綾部市に限っても 市・府の遺跡地図に未掲載・未調査だった城砦遺構は結構あるものですね
なかでも高津町の将監城…などは白眉ですね
安場町・田野町の 安場砦も遺構として気付く人は少なく また調査まで実施される契機もなさそうですが…山家城(甲ヶ峰城)の和久氏と内藤氏の関係 和久氏菩提寺の寺を護る為の些細な抵抗も 和籐合戦(下原の戦い)となったが永禄8年主戦場となった尾州ヶ尾や内藤宗勝の墓碑や宗勝を討った白波瀬肥前守の事も 知る人は少ないかも…地元:下原公民館前の和籐合戦案内説明板には永禄6年…とも
安場砦 は和籐合戦後に逃れた和久氏・白波瀬氏らが移動しながら籠もった砦か?
和藤合戦(三郡山陣・尾州ヶ尾・鑓場・白波瀬館) ↓
http://tanbakiri.web.fc2.com/KYOTO-yamaga-siro-docu.htm#watou
安場砦 ↓
http://tanbakiri.web.fc2.com/KYOTO-kimioyama-siro-docu.htm#yasuba
>T藤田さん
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>いつも楽しく拝読させていただいております。
>平山東城館跡の発掘調査略報が、「京都府埋蔵文化財情報 第23号」P57-58に掲載されていましたので、ご存じとは思いますが、お知らせしておきます。
>http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/jyouhou/kyoutofu-J23.pdf
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