淡河城西付城 神戸市北区

織田信長による中国攻めに大将:羽柴秀吉との軍議が決裂、一転して毛利方に付いた三木城主:別所長治の籠城戦に始まった三木合戦に、各所から兵糧が運びこまれた。河川を補給経路とした毛利方の搬送ルートの他、神戸方面からは織田方の背いた荒木村重(伊丹城主)が丹生山ルートを兵糧経路とした。
    西付城(低土塁曲輪の切岸と土橋付き空堀)
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此のルートを護り補給基地となったのが淡河城で城主淡河弾正忠定範。秀吉が此の淡河城を攻略して補給ルートを遮断するため、秀吉の弟:秀長ら一千余騎を向け、淡河城の四方に付城を築いて攻めたのが”淡河城合戦”です。東付城萩原城(木津城)に有馬法印則範・西付城(淡河城西ノ丸の西南方?浅野弾正長政)・南付城(西付城の南東へ約300m程:有馬則頼の長男・四郎次郎則氏)・北付城天正寺城には杉原七郎左衛門家次が陣して淡河城を包囲していきます。
      急斜な谷中に土堰堤?、更の傾斜を深めて落ちる谷途中の土橋から竪土塁
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淡河城攻め付城として知られる東付城を淡河城が遠望出来る?大歳神社付近の丘陵(田園)地と思えたが萩原城の位置等の詳細な情報をいただき:以前に(H20年)訪城しているが、定かでは無かった西の付城と南付城も同時に探索してみた。
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淡河城から西南方へ約400m程。淡河城西付城の現状は5年前と変わらず、農道沿いの「淡河簡易水道」配水施設側から西方の圃場に向かう幅狭い道の奥にトラックのコンテナが置かれているのが目印。
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付近から右手の猛烈な藪地に隙間を見つけて突入すれば数m先で藪は薄くなり、荒れた平坦地形に空堀や長く延びる低土塁・先に進むと深い谷を挟んで向かい側の丘陵(コンテナが置かれている先で車道は左折れするが、直進する踏み跡が続く)へは、谷底に土の堰堤とは思えない!?土橋と向かう丘陵上への竪土塁状で結ばれる。【此れに似た状況は法界寺山ノ上付城<三木市>にもホースランドパーク内の古墳群前の遊歩道に出る谷底にも見掛けた!!】


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