淡河城南付城 神戸市北区

中国・毛利攻めの軍議の決裂に織田信長に背いて毛利に付いた東播磨の別所長治が三木城に籠城した三木合戦の、兵糧輸送経路の一つに花隈城(伊丹城:荒木村重が神戸・花隈城に居て織田方に背いた)-淡河城-三木城へ運び込まれたルートがあり・淡河城が其の中継基地になっていた。天正7年羽柴秀吉は毛利方からの救援物資搬送経路を断つべく・丹生山城を奇襲し・続いて弟小一郎秀長に淡河城を攻めさせる
      前は貯水池・背後の右手藪奥は傾斜の急な谷・左手が南付城で谷側に長い土塁…!
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城主の淡河定範(別所長治の義理の伯父)の上山城(淡河城)周囲に築いた付城については淡河城西付城の項にも記したが、この西付城の直ぐ東南方約250m程の位置に淡河城南の付城を築き攻めたてた淡河城合戦伝承の付城が西と南の付城なのか?。淡河城をとり囲む付城群だが現状からは:東付城や西付城が余りにも淡河城に近いうえ、同じ上山台地の段丘上にあって、 淡河城に正対する間を遮断する谷・川・崖もない。この二つの付城は県の遺跡分布図に位置の記載や記事を見ない。
 谷側斜面上の長い土塁線
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丹生山からシビレ山(神戸市北区と三木市志染の市境界)への尾根筋から北方へ高度を落す枝尾根の一つ、特にシビレ山から447m峰・369m三角点峰の東手前を東北方(浦川峡谷沿い)へ延び出す尾根筋が、山懐まで上がってくる林道終点?付近で合う。此の林道から獣除けフエンスを開閉して農道に変わる所に貯水池(原池)が有り南側に接して南付城が、農道を下る簡易水道傍の西側の藪の丘陵部が西付城。短期に決着した戦いだけに二つの付城は城攻略よりは兵糧搬送や丹生山・淡河城の連絡ルート遮断が目的の付城だったのでしょうか?。
南付城:土塁と空堀(直ぐ横に近代の側溝もあるが…)
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淡河城合戦の伝承は淡河氏方が近在より集めた牝馬を敵陣に放ち、寄せ手の騎馬軍団を混乱させ、そこへ淡河勢が攻め込み一度は秀吉方を敗走させたという。秀吉はきっと大軍で攻め寄せてくる筈…淡河の小勢では護りも無理:勝算なき戦いを見定めて城に火を放ち・秀吉方の総攻撃前に城から出撃した城兵を率いた定範は夜間・三木城に合流した奇略は有名!!。もぬけの空となった淡河城は落ち、三木城に籠城した定範も同年9月大村平田村に谷大膳の陣を攻撃し大膳は討死するが定範も手傷を受けて逃れるが追いつかれ加佐八幡の森で一族郎党と共に戦死


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