伝:黒田城 西脇市

有名な人物には出生から諸説・異説がある。小説等でも様々に紹介される武将に姫路城の城代:黒田職隆の長男として姫路に生まれたとされる通説の黒田(小寺)官兵衛孝高がいる。家系を誇ろうと身分の高い人の血を受け継いだ形式の系図を盛んに作った時代もあって豊臣秀吉が氏素性:権威を高める為・公家の近衛家猶子となり藤原氏に改姓する例もある。豊前国12万石大名で中津城主となった黒田氏も二つの系図があり信憑性が問われ真意は薄れます。  
     地元で黒田城とされる(伝黒田城)主郭:右端祠は櫓跡か?
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小寺(黒田)官兵衛は信長の命を受け天正5年(1577)秀吉の中国征伐に従い転戦していた頃:小寺姓から元の黒田姓を名乗ったよう。西脇市も黒田官兵衛の生誕地を西脇市黒田庄町(多可郡から2005年西脇市に統合!)の黒田城としてPRされている。黒田氏は近江伊香郡黒田邑(村)説があるが、多可郡(現:西脇市黒田庄町)に播磨赤松氏の庶流(赤松円心の弟円光を祖とし其の子(弟)重光)が来住し黒田氏を名乗った播磨黒田氏説を、地元隣接の私的期待も含め下記資料からも有力とおもわれる。
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黒田庄町の公会堂(区有文庫)から発見された”黒田城系図”荘厳寺所蔵の本黒田家略系図等の資料からは孝高は播磨赤松氏庶流黒田氏7代目黒田城主:黒田下野守重隆、母は比延常範(土豪:比延山城の三ノ丸居館)比延氏一族の女の次男として天文15年(1546)黒田村で生まれ、乞われ姫路の小寺職隆の養子となり御着城主:小寺氏の家老となり羽柴秀吉の参謀役となったと云う。
      伝黒田城主郭:丘陵尾根筋の黒田城砦群内に主郭部が在った?
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伝:黒田城(地元でも此処を黒田城とされているが天狗山:小苗前山山城の南尾根筋の最先端部に位置しており、此の尾根上に点在する黒田城砦群?の一つと考えます)、加古川を挟んで西方に姻戚関係にある石原城が在り、永禄年間頃:黒田城と戦い黒田城は落城し北播磨の黒田氏は滅亡したものか?。此の戦いには丹波の赤井氏等が石原城側に与力しているが事の詳細知らず。二男孝隆が小寺職隆の養子となった後の事。天狗山南尾根上が主郭とされる黒田城も石原城にも平坦地形以外に明確な城遺構を見出せない。


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