姥が懐遺跡(黒田官兵衛生誕地) 西脇市

大河ドラマ(2014年度)決定により西脇市黒田庄町を”軍師黒田官兵衛”生誕地としてPR、以前より黒田城跡の案内標識が立つ伝:黒田城周辺が俄かに慌ただしく感じるのは気の性かも!。放映前なので未だ其の存在も知名度も低いが…「伝黒田城跡」への登城口(稲荷社へは溝谷(北谷川)に架かる参道橋を渡る)から山裾を回り込む整備された歩道には官兵衛生誕地PRの幟旗が靡く。通路沿いを約100m程進んだ田圃の奥に姥ヶ懐と書かれた案内説明板付の看板と”黒田官兵衛生誕地”石碑が立つ。
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黒田城主郭を含む尾根上の城砦群と伝:黒田城が兵庫県遺跡分布図に黒田構居(多田構居?)が加古川線と加古川に挟まれた田園地帯の中にあるが城主居館等の遺跡表示をみなかった。観光パンフ等で…秀吉の軍師:黒田官兵衛は「黒田(小寺)職隆の長男として姫路に生まれた…」の通説記事を見る!!?。
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アレ…官兵衛は此処:黒田庄町の黒田重隆の二男として生まれ・請われ姫路御着城:小寺政職の養子となり重臣として姫路城代になった…と、諸説はあるが…なにはともあれ再訪した荘厳寺の案内板により、字の姥ヶ懐に屋敷跡?を訪ねてみた。黒田城主の屋敷跡とされる姥ヶ懐遺構は;県遺跡分布等に記載なく発掘調査の手も入っていない様だが、城主居館推定地としての条件は整っている。
 黒田城麓を南から西北へ廻る溝谷(北谷川)を濠とする姥が懐(城館跡?)
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南から西北へと北谷川が加古川へ流れ出る溝谷を濠として広い2-3段の田圃内に家臣屋敷・最奥の高低差も一段高い位置に姥が懐(黒田家屋敷跡)、此処に黒田官兵衛誕生地の案内板・石碑が立ち庭池も復元されたものか? 遊歩道の先が伝黒田城の北尾根続きの鞍部に出るがフエンス外側は堀切。堀切が有事の際・山城へ詰めるための堀底道にもなっている。地元案内板の伝黒田城(稲荷社)は砦規模・本城とするには疑問も多く、天狗山への尾根上に遺る!?黒田城砦群や石原城とも関連した調査を待てば、疑問も少しは解消するのかも…


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