南僧尾城 神戸市北区

僧尾城(北僧尾城)から南僧尾城へ北区淡河町の二つの城を訪ねた。信長の播磨平定に抗し三木城に篭城して秀吉の包囲網に耐えたが「干し殺し」と呼ばれた悲惨な三木合戦に、城内の兵等の保身を条件に一族が自刃し開城した。三木城主別所長治の義理の叔父淡河定範淡河城に関連した城砦と思われる。
         車道側から延びる上り土塁
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僧尾城は比高30m程・南僧尾城は比高20m程の丘城で、先のブログにも記したが、淡河から吉川を経て東播磨の加東市・西脇市方面や摂津三田市方面に通じる。淡河城の東・北からの通行監視守備の砦とも、僧尾の地名からは二城の丘陵を東に越えると、南北朝期:僧兵を擁した石峰寺が在り石峰寺城の臨戦的城砦であったものか?…室町中・後期には三木城の支城が秀吉軍に落とされていくなか・
  北からの南僧尾城(右端が県道38からの小峠越地区道)
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兵糧補給基地として補給ルートを警護していたが、丹生山ルートの明要寺の夜襲に始まった”淡河合戦”での淡河定範の智略による大勝はよく知られる。此の頃の支城群・付城の一つとして、規模の小さな丘城ながら僧尾城は二重堀切で防備する支城が、南僧尾城は有馬氏の付城萩原城とは真北に凡そ800m程の距離にあり、堀切はなく水が溜まる沼池状だが土塁囲みの曲輪”武者溜まり?”と下段には土塁空掘(塹壕?)・切岸明瞭な段曲輪からは長い上り土塁状があり・登城ルート兼出撃用の様。萩原城を陣城とした淡河城攻めの付け城か!!?。
       天水受け井戸跡か?(3X6-7m)
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南僧尾城へは萩原城から徒歩で向かった。県道38号線とは淡河川を挟んで向かいに大歳神社を見る(萩原バス停の手前)位置で坂道を北に向かう地区道を辿ると山陽自動車道を跨ぎKDDI淡河無線基地局前を抜け小峠を越える低丘陵部の右手に・谷間に降る小道と車道沿いに丘陵上に向かう土塁道状がある。
       主郭下段の空掘土塁
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一帯の圃場・車道等造成改修によるものか?とも思えたが、比高僅か20m程だが土塁道は車道沿いからは離れ・斜面を崩しての造成工事跡にしては不自然。土塁線は切岸も明瞭な段曲輪前まで延び、其処から主郭側へ踏み跡が続く。城の規模からは切り崩されたと思われる北斜面側に、城遺構が遺されていたかは不詳だが曲輪や空掘や竪掘等の防備施設があったとは思えず、古くは北の僧尾城と呼応した石峰寺城の監視の砦、室町後期は萩原城に呼応して淡河城攻めの際の監視や兵が駐留した有馬氏配下の付城だったか?。


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